息が戻り始める
回復は、劇的じゃない。
静かに、疲れながら始まる。
スマートフォンを枕元に置いたまま、
私はしばらく天井を見ていた。
隠さない。
それだけのことが、まだ怖い。
彼の寝息が聞こえる。
いつも通りの夜。
いつも通りの部屋。
なのに私は、
自分が“戻らない向き”を守っていることを、
身体のどこかで感じていた。
眠りは浅かった。
何度か目が覚めた。
夢は覚えていない。
ただ、胸の奥がざらついている。
それでも朝が来る。
目を開けた瞬間、
私はすぐに起き上がらなかった。
呼吸を確かめる。
浅い。
でも、止まっていない。
止めないことが、
今の私にはいちばん大事だった。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
湯気が立つ。
香りがする。
以前は、香りを感じている余裕がなかった。
感じているふりはできても、
実際には、どこか遠くにいた。
今日は、少し違う。
カップを持った指先が温かい。
湯気が頬に当たる。
その小さな感覚が、
ゆっくり身体に戻ってくる。
――あ、入ってきてる。
それは「幸せ」じゃない。
「安心」でもない。
ただ、感覚が戻ってくるということ。
彼が起きてきた。
「おはよう」
私は顔を上げる。
「おはよう」
彼はいつも通りの声で、いつも通りの表情をしている。
それに、私の身体が過剰に反応しない。
前なら、ここで緊張していた。
言葉を選び、空気を読み、
“正しい自分”を差し出していた。
今日は、少し遅れて反応できた。
遅れる、ということは、
自分がいる、ということだ。
「今日はどうする?」
彼が聞く。
私は一度だけ迷って、答えた。
「少し外に出る」
「用事?」
「ううん。歩きたいだけ」
彼は一瞬だけ、言葉を探した。
でも、すぐに「分かった」と言った。
それでいい。
理解されなくてもいい。
許可されなくてもいい。
止められなければ、それでいい。
外に出る。
空気が冷たい。
肺が反射で縮む。
でも、ゆっくり吸い直す。
深くは入らない。
それでも、確かに入る。
歩きながら、私は何度も立ち止まった。
決めることに慣れていない。
どの道を行くか。
どこで曲がるか。
何分歩くか。
全部、小さすぎて、
今まで誰かに渡してきたことに気づく。
疲れる。
正直、楽じゃない。
でも、
疲れ方が違う。
消耗ではなく、
筋肉痛みたいな疲れ。
使っていなかった場所を、
今、使っている。
コンビニの前で、私は足を止めた。
入るか、入らないか。
こんなことまで、決める。
私は、入った。
コーヒーの棚の前で少し迷って、
新しい味を選んだ。
買って、外に出て、
ひと口飲む。
甘い。
苦い。
ちゃんと味がする。
味がすることに、
少しだけ泣きそうになった。
帰り道、スマートフォンが震えた。
昨日の、短い返信。
その人から、もう一通だけ届いていた。
またいつでも連絡してね。
その一文に、
胸の奥が少しだけ広がる。
「救い」じゃない。
「誰かに助けられた」でもない。
ただ、
世界が閉じていないだけだ。
私は家に戻る。
玄関の鍵を回す音が、
以前よりはっきり聞こえる。
部屋に入ると、
空気は同じ。
家具も同じ。
彼もいる。
それでも、
私の中の呼吸は、完全には戻らないまま、
止まらなくなっていた。
夕方、彼がふと私を見て言った。
「今日、なんか…顔が違うね」
私は少し考えて、答える。
「そうかな」
彼は笑う。
私は、笑わない。
笑えないのではない。
無理に笑わなくていいだけだ。
その夜、ベッドに横になりながら、
私はもう一度息を吸った。
深い呼吸には、まだ遠い。
怖さも、まだある。
それでも私は知っている
――息を止めて生きる場所には、もう戻らない。
次は、この呼吸を「日常」にしていく。




