戻らないと決めるほうが、怖い
戻らないと決めるのは、誰にも褒められない。
朝、起き上がるのに少し時間がかかった。
眠れたはずなのに、身体が重い。
疲れている。
でも、壊れてはいない。
私は天井を見て、呼吸を確かめた。
浅い。短い。
それでも止まっていない。
それだけで、今日は動ける気がした。
キッチンに行くと、彼はもう起きていた。
コーヒーの香り。
いつもと同じ光景。
「おはよう」
私は言う。
声は震えていない。
「おはよう」
彼は穏やかに返して、いつものように続けた。
「今日はどうする?」
質問の形は柔らかい。
でも、この一言で、私の一日が彼のサイズになることを
私はもう知ってしまっている。
私は返事を作りかけて、止めた。
“いつも通り”は、言える。
言えば楽になる。
その先の不安も、罪悪感も、眠れない夜も、なくなる。
でも、その楽さの中で、私は息を止めてしまう。
私は息を吸って、吐いて、言った。
「今日は、少し考えたい」
彼は一瞬だけ、驚いた顔をした。
そしてすぐに笑う。
「考えすぎだよ」
声は優しい。
責めていない。
むしろ、安心させようとしている。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、小さく痛みが走った。
この人は悪くない。
でも、この人の“安心”は、私を薄くする。
「無理しないでね」
彼は、正しい言葉を重ねる。
「君は疲れやすいから」
私は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、コップの水を一口飲んだ。
沈黙が落ちる。
沈黙を埋めなくていいことが、
今の私には大切だった。
午前中、私は外に出た。
用事はない。
目的もない。
ただ、外に出る。
この「理由のなさ」が、私には怖かった。
誰にも説明できない行動は、
許されない気がしてしまう。
でも、誰に許されたいのか分からない。
歩きながら、何度もスマートフォンを見た。
返信を読み返す。
短い文字。
外側の世界と切れていない証拠。
私は、その画面を閉じた。
「つながる」ためじゃなくて、
「閉じない」ために。
公園のベンチに座り、
私は自分に問いかけた。
――戻らないと決めるのは、誰?
彼ではない。
もう一人の私でもない。
友達でもない。
私だ。
誰にも褒められない。
拍手もない。
正解も保証もない。
それでも、私が決める。
怖い。
とても。
戻るほうが、ずっと簡単だ。
戻れば、平和だ。
“問題は起きない”。
でも私は、もう知っている。
問題が起きないことが、
私を守るわけじゃない。
私は、ベンチの背もたれに背中を預け、
目を閉じた。
風の音。
子どもの声。
遠くの車の走る音。
世界が、広い。
それを感じた瞬間、
胸の奥に小さな震えが起きた。
怖さは消えない。
でも、怖さの中に、確かに息がある。
私は、立ち上がった。
家に戻る途中、
「戻る」という言葉が頭に浮かんで、
すぐに意味が変わった。
戻るのは、彼の世界へじゃない。
私の身体が、私に戻ること。
玄関の前で、一度立ち止まる。
鍵を握る手に力が入る。
ドアを開けたら、
また“いつも通り”が待っている。
それでも、私は開ける。
逃げない。
戦わない。
ただ、向きを守る。
部屋に入ると、彼の気配がした。
私は深く息を吸おうとして、うまくいかなくて、
それでも止めなかった。
私はまだ怖い。
迷いもある。
でも、もう決めた。
戻らない。
声にしなくてもいい。
相手に伝わらなくてもいい。
私の中で、向きが揃っていればいい。
その夜、
私はスマートフォンを枕元に置いた。
隠さなかった。
それだけのことが、
私にとっては大きかった。
そして私は、
怖いまま、
次の一歩を選ぶ準備をしていた。




