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あの恋が続いていた世界で、私は息をしていなかった  作者: さくらこ


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12/15

戻ろうとして、戻れない夜

外に出た日は、呼吸ができた気がした。


ほんの少しだけ。

肺の奥に空気が入って、世界が立体になる感覚。

それを「戻った」と呼ぶには早すぎるのに、

身体は勝手に期待してしまう。


その期待が、夜に裏切られる。


彼はいつも通り、穏やかだった。

「おかえり」と言って、食事を作って、隣に座る。

決まった会話。決まった時間。決まった温度。


私はその“決まり”の中に、

一瞬だけ戻りかけた。


戻れば楽だ。

説明しなくていい。

自分の選択を守らなくていい。

迷う必要がない。


テレビの音が流れて、

彼が笑って、

私は相槌を打つ。


身体が、勝手に馴染む。


その瞬間、

胸の奥が冷たくなった。


――いま、私は何をしている?


問いが浮かんで、すぐに消えかける。

消えそうになるのを、私は必死で掴んだ。


その夜、彼が何気なく言った。


「最近、落ち着いてきたよね」


落ち着いてきた。


その言葉は、本来なら安心のはずだった。

でも今日は、

檻の鍵が閉まる音に聞こえた。


「余計なこと考えなくなった感じ」


彼は、嬉しそうに笑う。

私を褒めている。

修正が進んだことを喜んでいる。


私は言葉を返せなかった。


否定すれば、空気が変わる。

肯定すれば、私が消える。


その二択の中で、

私はしばらく黙ってしまった。


「どうしたの?」


彼の声は優しい。

心配している。

守ろうとしている。


私は小さく笑って、言った。


「なんでもない」


その瞬間、

自分の声が遠く感じた。


ベッドに入っても眠れなかった。

暗闇の中で、

彼の“正しさ”が、順番通りに再生される。


君のため。

無理しないで。

僕が考える。

失敗しないように。


正しい。

ぜんぶ正しい。


だから、逃げ道がない。


私は布団の中で、

自分の息が浅くなっていくのを聞いた。


昼間は吸えたのに。

夜になると戻る。

狭い世界の呼吸に。


――ほら、やっぱり無理なんだ。


心のどこかで、そう囁く声がした。

戻ればいい。

元の場所に戻れば、眠れる。


私は起き上がって、スマートフォンを手に取った。


返信の画面を開く。

外側の世界に繋がっている痕跡。

それを見ているだけで、胸が少し痛い。


私は、入力欄に短く打った。


ごめん、やっぱり…


そこで止まった。


指が動かない。


「やっぱり」って、何?

何に戻るの?

誰の正しさに戻るの?


入力欄の文字を消して、

私はスマートフォンを置いた。


代わりに、彼の寝息が聞こえる。


安心するはずなのに、

今日は、少しだけ怖かった。


怖いのは彼じゃない。

この寝息を聞いて、

自分がまた“戻れる”ことが怖い。


私は、布団の中で目を閉じた。


すると胸の奥で、

あの声が、ほとんど息みたいに小さく響いた。


『戻れば楽になる』


否定しない。

事実だから。


『でも、楽になった分だけ、あなたが消える』


私は、喉の奥が熱くなった。

涙が出そうで、出ない。


『戻らないって決めるほうが怖い』


その言葉だけが、

暗闇の中に残った。


私は、呼吸を数えた。

一回。二回。

浅い。短い。


それでも、止めない。


――戻らない。


声にはならなかった。

宣言でもなかった。

ただ、胸の奥で、向きが変わる音がした。


朝が来る。


彼はいつも通り、私に笑いかける。

私はいつも通り、微笑む。


でも私は知っている。

「いつも通り」は、私を守らない。


守るのは、

私が決める向きだけだ。


窓の外の光が、少しだけ眩しい。

私は、もう一度息を吸った。


浅いままでも、いい。

止めなければいい。


そして私は、まだ怖いまま、

次の一歩を選ぶ準備をしていた。


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