小さな選択
送信ボタンを押した指先が、まだ熱を持っていた。
スマートフォンをポケットにしまっても、
画面の点滅が瞼の裏に残っている気がする。
心臓の音が、やけに大きい。
――たった二文字だったのに。
私は何度か息を吸って、吐いた。
深くは入らない。
それでも止めない。
怖い。
でも、逃げていない。
昼休みの廊下を歩きながら、
私は自分が何か大きなことをしてしまったみたいに感じていた。
実際には、誰も見ていない。
誰も知らない。
それなのに、
世界が少しだけ違って見えた。
仕事に戻ってからも、集中しきれなかった。
机の上の書類はいつも通り。
キーボードの音も、周りの会話も、同じ。
でも私は、ずっと内側で揺れている。
返信が来るかどうかじゃない。
来なくてもいい。
怖いのは、送った事実のほうだった。
「元気?」
たった二文字が、
私の中の“いつも通り”を切ってしまった。
退勤時間が近づくと、身体が固くなった。
いつもなら、終業の合図は安心だった。
彼の待つ家に戻れば、決まった流れがある。
考えなくて済む。
でも今日は違う。
帰るという行為が、
誰かの世界に戻ることに感じられてしまう。
スマートフォンが震えた。
反射的にポケットから取り出して、
息が止まりそうになった。
画面には短い返信が一つ。
久しぶり。元気だよ。
それだけだった。
責めも、距離も、詮索もない。
ただ、世界の外側から届いた、普通の言葉。
私は、その一文を何度も読み返した。
胸の奥が、少しだけ広がった。
それは喜びじゃない。
安心とも違う。
――世界は、まだある。
帰宅すると、彼はキッチンに立っていた。
「おかえり」と言う声も、いつも通り。
鍋の匂い、部屋の明るさ、並んだスリッパ。
全部、変わっていない。
変わったのは、私だけだ。
「今日、どうだった?」
彼が聞く。
私は一瞬言葉を選びかけて、やめた。
選ぶことを、やめない。
「普通」
嘘ではない。
でも、全部は渡さない。
彼は満足そうに頷いて、話題を変えた。
この人は、何も気づいていない。
気づかないまま、穏やかにしていられる。
その穏やかさが、
今日は少しだけ、薄い膜のように見えた。
夜、ベッドに横になると、
罪悪感が遅れてやってきた。
裏切っている。
期待を外している。
秩序を乱している。
――誰の?
分からないのに、身体だけが覚えている。
「正しい世界」から外れたときの、あの恐怖を。
戻ればいい。
戻れば楽になる。
元の“いつも通り”に戻せば、眠れる。
そう思った瞬間、胸の奥で、はっきりした違和感が生まれた。
――戻るって、どこへ?
考えなくて済む場所へ。
息を止める代わりに、安心が与えられる世界へ。
私は、そこを知ってしまった。
涙が一粒、こぼれた。
大きな悲しみじゃない。嗚咽もない。
ただ、
自分を裏切りかけたことへの、静かな恐怖。
私は、戻れなかった。
戻る勇気も、もうなかった。
翌朝。
目が覚めた瞬間、私はすぐに起き上がらなかった。
天井を見て、呼吸を確かめる。
深くはない。
でも止まっていない。
それだけで、今日は始めていい気がした。
彼が起きてきて、「おはよう」と言った。
私は「おはよう」と返す。
声は、震えていなかった。
「今日はどうする?」
いつもの質問。
いつもの流れ。
でも今日は、答えが違った。
「今日は、私の予定で動く」
彼は一瞬だけ言葉を探す顔をした。
「用事?」
「うん」
それ以上、説明しなかった。
彼は少し間を置いてから言った。
「分かった」
怒りも疑いもない。
だからこそ分かった。
この人は、選択の重さを理解していない。
そして、理解しなくていい。
私は靴を履き、玄関のドアに手をかけた。
鍵を持つ。自分で。
外に出ると空気が冷たかった。
でも、深く吸えた。
歩きながら、私はもう一度、スマートフォンを握りしめる。
返信は短い。
それでも世界が少し広がった。
決めたのは、ただ一つ。
今日は、私が選ぶ。
振り返らない。走らない。逃げない。
ただ、一歩ずつ。
世界線は、静かに切り替わった。
音もなく。
でも、確実に。




