送れない指
「次は、行動だ」
そう思った夜ほど、
行動できない。
部屋は静かで、彼の呼吸は規則正しい。
それを聞いているだけで、胸の奥が落ち着く気もする。
落ち着く、というより、思考が遠のく。
私はベッドの端で、スマートフォンを握っていた。
画面をつけて、消して、またつける。
何かを探しているわけじゃない。
ただ、そこに“出口”があるような気がして、手放せない。
連絡先を開く。
指が滑る。
上のほうには、最近のやりとり。
業務連絡。
必要な用件。
短い言葉だけが並ぶ。
少し下へ。
さらに下へ。
ずっと使っていなかった名前が、薄く残っている。
私はそこで指を止めた。
――これを押したら、何が変わる?
問いが浮かぶ。
答えは出ない。
変わらないかもしれない。
変わるかもしれない。
変わったとして、それが良いのか悪いのかも分からない。
たった一通のメッセージが、世界線を変えるなんて。
そんなの、大げさだ。
でも、心のどこかでは知っている。
この世界は、ほんの小さな「はい」で作られてきた。
「そうだね」
「いつも通り」
「大丈夫」
その小さな肯定が積み重なって、
私の呼吸を奪った。
なら、反対も同じだ。
ほんの小さな「選び」が、向きを変える。
分かっている。
だからこそ、怖い。
スマートフォンの画面に、私の顔がうっすら映っている。
焦点の合わない目。
見慣れたはずの顔。
鏡の中の声が、胸の奥で小さく鳴った。
『小さくでいい』
小さく、とは何だろう。
大きな決断じゃなくていい。
荷物をまとめなくてもいい。
別れを宣言しなくてもいい。
ただ、自分で決めること。
ひとつ。
私は一度、息を吸った。
浅い。
それでも止まらない。
そのとき、隣で彼が寝返りを打った。
布団が擦れる音。
わずかな動き。
胸が、条件反射で固まる。
――見られたらどうしよう。
自分でも可笑しくなる。
彼は寝ている。
見ていない。
それでも、私の身体は「監視されている前提」で動く。
私はスマートフォンを伏せて、布団の中に隠した。
隠した瞬間、
自分の中で何かがひどく惨めに感じた。
誰にも見られていないのに、
私は隠している。
これは、私の意思だ。
私が選ぶ。
そのはずなのに。
惨めさの奥から、別の感情が顔を出す。
――怒り。
彼に対してではない。
大きな世界に対してでもない。
自分に対する怒りだった。
私は、いつまで「隠れる側」にいるつもりなんだろう。
布団の中で、指先が震えた。
恐怖と、決意の区別がつかない。
次の日の朝。
彼はいつも通り、穏やかに「おはよう」と言った。
私はいつも通りに「おはよう」と返した。
何も起きない。
何も変わらない。
その安定が、
昨日までは“救い”だったはずなのに、
今日は“壁”に感じられた。
仕事へ向かう道で、私は何度もスマートフォンを見た。
意味はない。
ただ、逃げ道を確かめるみたいに。
昼休み。
私は一人で、席を外した。
誰にも気づかれない角度で、スマートフォンを開く。
画面の明るさがやけに眩しい。
連絡先を開く。
あの名前まで、指を滑らせる。
そこに来ると、心臓が少し速くなる。
メッセージ画面を開く。
入力欄のカーソルが、点滅している。
まるで、
「ここから先はあなた次第」と言っているみたいに。
私は短く打った。
元気?
たった二文字。
それだけ。
それなのに、送れない。
指が、送信ボタンの上で止まる。
呼吸が浅くなる。
その瞬間、彼の声が頭の中に浮かんだ。
「余計なもの、減らしたほうがいい」
「君のため」
そして、もっと静かな声。
――失敗しても、後悔しないでね。
私はスマートフォンを持つ手に力を入れた。
失敗かどうかは、まだ分からない。
後悔するかどうかも、分からない。
でも、
“送らない”ことだけは、
もう何度もやってきた。
送らない。
連絡しない。
考えない。
その積み重ねが、
私の時間を白紙にした。
私は、入力欄の文字を消さなかった。
消してしまったら、また戻ってしまう気がした。
送信ボタンの上で止まった指を、
ほんの少しだけ下ろす。
――押す。
押したのか、まだ押していないのか。
その境目が分からないくらい小さな動き。
でもその小ささが、
私の全身を揺らした。
スマートフォンを握りしめ、私は立ち上がる。
足が少し震えた。
怖い。
でも、逃げていない。
私は、ようやく知った。
行動は、勇敢な人がするものじゃない。
怖いまま、するものだ。
そして私は、
次の一歩をもう決めていた。




