選ばなかった世界
もし、あの恋が続いていたら。
気づけば私は、選ばなかった世界に立っていた。
優しく、正しく、守られているはずの恋人の隣で、
私はいつの間にか、考えることと呼吸を手放していた。
これは、別れの物語ではない。
誰かを悪者にする話でもない。
「自分で選ぶ」という感覚を取り戻すまでの、
静かな回復の記録だ。
もし、あの恋が続いていたら――そんな世界に、私は立っていた。
朝、目を覚ました瞬間に分かってしまった。
ここは、私が選ばなかった世界だ。
隣で眠る彼の寝息だけが、やけに現実だった。
カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、部屋は静かだった。
見慣れたはずの天井。
並べられた二つの歯ブラシ。
きちんと揃えられたスリッパ。
全部、知っている。
でも同時に、全部が少しずつ違っていた。
隣で眠っている彼の寝息を聞きながら、私は動けずにいた。
起こしてはいけないと思ったわけじゃない。
ただ、ここで声を出したら、私という存在が壊れてしまう気がした。
彼は、優しい人だった。
少なくとも、この世界では。
「おはよう」と言えば微笑んでくれるし、
「大丈夫?」と聞けば、理由を問う前に抱きしめてくれる。
他人から見れば、何の問題もない恋人同士だ。
それなのに、胸の奥が苦しかった。
深呼吸をしようとしても、肺の奥まで空気が入らない。
私は、ここで生きてきた。
この世界線の私は、彼と別れなかった。
疑問を飲み込み、違和感を言葉にせず、
「きっと私の考えすぎ」と何度も自分をなだめてきた。
仕事も、人間関係も、選択肢はいつも彼を基準に並んでいた。
それが当たり前だと思っていたし、
愛とはそういうものだと信じていた。
――信じていた、はずだった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、驚くほど穏やかだった。
笑っている。
疲れているようにも見えない。
でも、その目は、どこにも焦点が合っていなかった。
「今日、何時に帰る?」
背後から彼の声がして、肩が小さく跳ねる。
反射的に「いつも通り」と答えてから、
その言葉が何を意味するのかを思い出す。
いつも通り。
彼の予定を優先して、
彼の機嫌を読んで、
彼の価値観に合わせて生きる一日。
彼は満足そうに頷き、キッチンへ向かった。
その背中を見送りながら、私は思った。
この世界の私は、
ちゃんと愛されているように見える。
でも――
生きてはいない。
ふと、頭の奥に別の景色がよぎった。
一人で立っている私。
誰の顔色も伺わず、
小さくても自分の選択を重ねている私。
息ができる世界。
痛みはあっても、酸素のある世界。
胸が強く締めつけられる。
これは夢なのか、記憶なのか。
それとも――警告なのか。
私は、ここにいる理由をまだ知らない。
戻る方法も、分からない。
それでも身体だけが先に理解していた。
息を吸おうとして、私は初めて気づいた――ここでは、うまく呼吸ができない。




