第3話 まだ名のない一歩
朝の食卓は、静かだった。
湯気の立つスープを前に、
父はしばらく黙ったままだった。
言いかけた言葉。
――“竜の地”。
エリオは、何も言わずに待った。
急かせば、答えが軽くなる気がした。
それだけは、分かっていた。
やがて、父が小さく息を吐く。
「……すまん、エリオ」
「正直に言う」
父は、首を横に振った。
「俺にも、よく分からないんだ」
一瞬、胸の奥が沈む。
だが、不思議と、突き落とされたような気持ちにはならなかった。
父の声には、
迷いよりも、覚悟に近いものが滲んでいた。
「俺たちが子どもの頃にな」
「そんな言葉が、噂になったことはある」
母が、スープをかき混ぜながら、懐かしそうに笑う。
「竜が生まれた場所だとか、
選ばれる前に辿り着く地だとか……」
「子どもたちが勝手に話を広げていったのよ」
「ほんと!あっという間だったのよ」
父が続ける。
「だが、誰も確かなことは知らなかった」
「いつしか、誰も口にしなくなった」
エリオは、思わず身を乗り出す。
「じゃあ……本当に、何も分からないのか?」
父は少しだけ考え込み、
やがて、視線を上げた。
「分からない」
「だが――」
父の目が、まっすぐエリオを捉える。
「村で困ったときは、
村で一番の物知りに聞け」
エリオは首をかしげる。
「村長?」
父は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや」
「……例の“箱”に住んでいる男だ」
一瞬、時間が止まった。
「え……?」
「だって、あそこは……」
幼い頃から、近づくなと言われていた場所。
村はずれに置かれた、大きな箱のような小屋。
父は、静かに言った。
「ああ」
「竜の声を聞く者は、関わってはならない」
「そう、大人たちが決めた」
エリオは、思わず声を上げる。
「じゃあ、なんで……」
父は、少しだけ笑った。
「今のお前にはな」
「一番、必要な人だ」
母が、そっと言葉を添える。
「怖いかもしれないけど」
「行ってみなさい」
エリオは、スープの残りを飲み干し、椅子から立ち上がった。
戸口の向こうから、
朝の風が流れ込んでくる。
冷たくも、暖かすぎもしない。
ただ、背中を押すような、澄んだ風だった。
振り返ると、
父と母が並んで立っている。
止める言葉はない。
けれど、送り出す覚悟は、確かにそこにあった。
「……行ってくる」
エリオは、そう言って家を出た。
村の道は、いつもと同じはずなのに、
今日だけは、やけに明るく見えた。
昨日までは、
「選ばれなかった子」のまま歩いていた道。
けれど今は、
何かが始まりそうな気がする。
理由は分からない。
証拠もない。
それでも、
胸の奥が、少しだけ軽い。
エリオは歩き出した。
“竜の地”へ向かうための、
まだ名のない、一歩目として。




