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第35話 揺れる刃

 出発の朝は、妙に澄んでいた。


 潮の匂いが、風に混じっている。


 港には、すでに船が停泊していた。


 巨大な帆を広げた《凪》。


 帆布に刻まれた魔力紋が、朝日に淡く浮かぶ。



 ギルド前はいつもより静かだった。


「エリオ〜……」


 低い声。


 檻の中で、プルがじっとこちらを見ている。


 目だけが潤んでいる。


「……」


 エリオは視線を逸らす。


「プルちゃん呼んでるよ?」


 リュカが肩を揺らす。


「いい子にしてたか」


「怒ってるぞ」


リュカ「そりゃそうよ。こんな狭いとこに三日間も閉じ込められて、怒るのも無理ないわ」


「おやつが一日二回だった!」


「そこかよ」


 笑いが起きる。



 ギルド長が現れる。


「準備は整っている」


「砂の国行きだ。港へ向かえ」


「風の街から直行便はない。だから用意した」


「十日ほどだ」


「貸切船かよ」


 ベルクが眉を上げる。


ルルカ「奮発したわね」


「礼だ」


 ギルド長は短く言った。


「街を守った分だ」


 エリオは静かに頭を下げる。


ギルドを出る直前、背後から足音がした。


 ガルドだった。


 ルルカが小さく言う。


「リュカ、あなたに用があるそうよ」


 ガルドは視線を逸らしたまま言った。


「……今まで、すまなかった」


 リュカは少しだけ驚き、そして笑う。


「大丈夫だよ。もう前向いてる」


 短い沈黙。


 ガルドは、深く頭を下げた。


 それで十分だった。



 船が浮く。


 地面を数寸離れ、滑るように進む。


 街が遠ざかる。


 海が広がる。


「うおおおお!」


 プルが甲板を走る。


「落ちるぞ」


 ベルクが言う。


「浮いてるから落ちないぞ!」


 プルが手すりにぶら下がる。


 船は海面すれすれを滑る。


 波が割れる。


 帆に刻まれた魔力紋が淡く光る。


 帆が風を“掴む”のではない。


 風が、帆に従う。


 ぐっと加速する。


 甲板がわずかに傾く。


「これが風走りの船、《凪》だ」


 低い声。


 白髭の船長が腕を組んでいた。


「風を溜め、風で走る」


 船体の中央。


 魔力石が青く脈打つ。


「空は飛ばん。だが海も陸も走れる」


 波が弾ける。


 船長が振り返る。


「本来、直行便はねえ」


 一拍。


「だが——これは、お前らのための直行便だ」


 帆が鳴る。


「最短で砂の国へ向かう」


 船長が言う。


「食料には限りがある」


 一拍。


 プルが顔を上げた。


「ぷ……プルのご飯はあるのか?」


 船長は海を見たまま答える。


「腹を空かせた魔物もいる」


 ゆっくり振り返る。


「目立つやつから、食われる」


 プルが胸を張る。


「たくさん食べるなら協力してもいいな」


 エリオが即座に言う。


「おいプル、その頃お前、獲物の腹の中だぞ」


 プルの目が見開く。


「えっ……それは絶対いやだケロ」


 舌が引っ込む。


 甲板が静まり返る。


 船長が小さく笑った。


「まあいい」


 視線が水平線へ戻る。


「途中で魔物が出る。倒せるなら助かる」



 甲板の中央。


 ベルクが蒼刃を見る。


「この十日で、基礎を叩き込む」


 海の風が甲板を撫でる。


「まず聞く。剣を扱う上で一番大事なのはなんだ?」


 エリオは即答した。


「力と体力」


「それも大事だ」


 ベルクは首を振る。


「だが違うな」


 木剣を肩に担ぐ。


「その答えが分かった時、基礎はできてる」


 一歩、距離を取る。


「お前はまだ甘い」


 そして。


「振れ」


「……何回ですか」


「千」


 即答だった。


 エリオが目を瞬かせる。


「千、ですか」


「少ないか?」


 真顔。


「形を体に刻め。考えるな」


 エリオは蒼刃を構える。


 ――重い。


 さっきより、重い気がする。


 握り直す。


 振る。


 一。


 二。


 三。


 重い。


 四。


 五。


 六。


 腕が引かれる。


 十。


 二十。


 汗がにじむ。


 五十。


 呼吸が乱れる。


 百。


 肩が熱を帯びる。


 蒼刃は黙ったままだ。


 ――重い。


 二百。


 三百。


 腕が震える。


 四百。


 波が揺れる。


「止まるな」


 ベルクの声だけが飛ぶ。


 五百。


 六百。


 握力が抜けそうになる。


 蒼刃が滑る。


「握り直せ」


 手は貸さない。


 七百。


 八百。


 視界が白む。


 九百。


 息が焼ける。


 九百九十九。


 千。


 最後は振り落とすようだった。


 蒼刃が甲板に触れ、鈍い音を立てる。


 エリオは膝をつく。


「……終わりました」


 荒い呼吸。


 ベルクが近づく。


「よし」


 そして。


「振ってみろ」


「……今?」


「今だ」


 震える腕で構える。


 振る。


 軌道がぶれる。


 重さに引きずられる。


 蒼刃が遅れる。


 木剣が横から叩き落とす。


 鈍い衝撃。


「まだ、だな」


 ベルクは木剣を担ぐ。


「明日も同じだ」



 二日目。


 三日目。


 同じことを繰り返した。


 波の揺れにも、汗の匂いにも、慣れていった。


 それでも。


 なぜか。


 剣は、日に日に重くなっていった。



 四日目。


 千振り終える。


「振ってみろ」


 木剣が横から叩き落とす。


 ベルクに弾かれる。


 鈍い衝撃が腕に残った。


「全然だな」


 短い一言。


 波が船体を揺らす。


 足元がぶれる。


 エリオは歯を食いしばった。


 悔しさが、胸の奥でじわりと広がる。


「そんなものか? お前の強くなりたい理由って」


 幼い日の声が、ふと浮かぶ。


『エリオ、なんで強くなりたいの?』


『……一緒に竜守り人になるためだろ』


 笑って拳を合わせた日。


 あの時は、隣だった。


 今は、遠い。


 竜の声は、聞こえなかった。


 選ばれなかった。


 それでも。


 ここで止まれば、本当に終わる。


 蒼刃を握り直す。


 重い。


 冷たい。


 奥で、わずかに脈打つ。


「……もう一回」


 ベルクが木剣を構える。


 今度は踏み込みが半歩深い。


 振る。


 蒼い軌跡がわずかに安定する。


 ――だが。


 刃が、遅れる。


 わずかな半拍。


 木剣の先が肩を打つ。


「違う」


 ベルクが言う。


「お前はまだ、剣を追ってる」


 エリオは息を吐く。


 汗が顎から落ちる。


 蒼刃は、静かだ。


 応えない。


 拒絶もしない。


 ただ、重い。


「……持てるようにはなってきた」


 ベルクが言う。


「だが、扱えてねえ」


 事実だった。


 エリオはうなずく。


 悔しい。


 だが、折れてはいない。


「今日はここまでだ」


 木剣を肩に担ぐベルク。


「焦るな。その剣は急がねえ」


 エリオは蒼刃を見下ろす。


 応えてくれとは思わない。


 ただ。


 手放さない。


 波がまた揺れた。


 その揺れの中で、


 ほんの一瞬だけ。


 刃が、わずかに鳴った気がした。


 だがそれは、


 風のせいかもしれなかった。



 修行を終えると、腕が痺れていた。


 蒼刃を鞘に納める。


 甲板の端で、リュカが待っていた。


「エリオ、大丈夫?」


 少し心配そうな顔。


「うん。きついけど」


 肩を回す。


「でも……振るたびに、コイツが応えようとしてる気がする」


 蒼刃に視線を落とす。


 まだ重い。


 まだ扱えない。


 それでも。


「強くなりたいって、思わせてくるんだ」


 リュカが小さく笑う。


「そういうところ、好きだよ」


「え?」


「男の子の、そういうまっすぐなの」


 エリオは目を逸らす。


「プルとルルカは?」


 リュカが肩越しに指をさす。


 船尾。


 プルが変な跳ね方をしていた。


 足を曲げて、びょんびょん跳ねる。


 舌を回す。


 鼻歌を歌う。


「かえるのうたが〜」


 声が裏返る。


「きこえてくるよ〜」


 突然テンポがずれる。


「ケロケロケロ〜じゃない!

 プルプルプル〜♪」


 その場で回転。


 甲板に転ぶ。


 船員が無言で見ている。


 ルルカはその横で、甘い菓子を食べていた。


「ん〜……これ、最高」


 幸せそうに頬を緩める。


 だが視線はちらりとエリオへ。


「……ベルクに取られてるわね」


 むすっとした顔。


「私も魔法教えようかしら」


 エリオが青ざめる。


「身体もたない……」


 リュカがくすりと笑う。


 船は静かに揺れている。


 潮の匂い。


 笑い声。


 少しだけ、穏やかな時間。



 5日目。


■ 船上修行


 波の上。


 足場が揺れる。


 ベルクが木剣を構えた。


「振るな」


「……振らない?」


「合わせるな」


 一歩、踏み込む。


「お前が先に動け」


 蒼刃がわずかに重くなる。


 刃が、わずかに先に出る。


 エリオの体が引かれる。


 木剣が肩を叩く。


「今のだ」


「……え?」


「剣に引かれただろ」


 ベルクが近づく。


「主導権を渡すな」


「剣が動く前に、お前が動け」


 エリオは息を整える。


 蒼刃が、わずかに震える。



■ 異変


 船体が揺れた。


 ガン、と鈍い音。


「船底に何かいる!」


 船員の叫び。


 水面が割れる。


 現れたのは――


 甲殻喰らい。


 四足の巨大な海魔獣。


 背に硬質の殻。


 鋭い顎。


 甲板へ跳ね上がる。


「中型だ!」


 ベルクが即座に出る。


「エリオ、来い!」


 蒼刃を抜く。


 重い。


 刃が、前へ出ようとする。


 ――主導権を渡すな。


 ベルクの声がよぎる。


 甲殻喰らいが咆哮した。


 波が跳ねる。


 蒼刃が、わずかに震える。


 エリオは踏み出す。


 今度は、引かれない。

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