第29話 歪みの中心
魔物が、途切れた。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、何も出ない。
罠の誤作動も止まる。
矢も、刃も、落石も――沈黙した。
だが。
安心の静けさではない。
全員が、同じことを感じていた。
嵐の前だ。
レインが歩みを止める。
ノーベルも、鐘を鳴らさない。
リリアだけが、奥を見ている。
「この先で間違いないな」
レインが言った。
リリアは鼻先をわずかに動かし、嫌そうに目を細める。
「ええ……悪趣味な匂いがするわ」
「ここから」
空気の“向き”が、変だ。
呼吸が、半拍遅れて返ってくる。
足音が、吸われていく。
通路の先が、ぼやけて見えた。
――違う。
視界が曇っているんじゃない。
空間そのものが、歪んでいる。
そして。
そこに、“それ”はいた。
小さい。
弱そうに見える。
魔物のように牙もない。
アーティファクトのように形もない。
ただ、そこに張り付いた異物。
黒い染みみたいなものが、床と壁に薄く広がっていた。
なのに。
周囲だけ、影がズレる。
音が遅れて届く。
魔素の流れが止まる。
“場”が壊れている。
ベルクが小さく鼻を鳴らした。
「……なんか、弱くなってねぇか?」
「前の湖のやつより、威勢がない」
リリアが即答する。
「それは私が周りの魔素を吸い取っているからよ」
「こいつは――“本体”じゃない」
一拍。
「この厄災は、核じゃない」
「これは……媒介」
「つまり、“厄災のかけら”よ」
言葉にした途端、空気が冷たくなる。
レインが剣先を少し上げた。
「あとは、これをどう処理するかだが……」
「とりあえず」
ベルクが前に出る。
「切ってみる」
愛刀――刹那丸。
ひと振り。
空気を切ったはずの剣が、黒い染みに触れた瞬間――
バンッ。
硬い音。
透明な膜に弾かれ、刃が跳ね返った。
ベルクが舌打ちする。
「……結界かよ」
ノーベルが低く言った。
「剣じゃ、切れんな」
「なら――閉じ込めるか」
銀髪の男が、鐘に指を添える。
――ゴォン。
重い音が響いた。
空間に輪郭が生まれる。
黒い染みの周囲を、結界が包む。
一瞬。
うまくいくように見えた。
だが――
結界に、亀裂が走った。
ピシ。
ピシピシ……。
そして。
パリン。
砕けた。
ルルカが唇を噛む。
「だめね……」
「有効手段が、リリアの魔素コントロールだけなんて」
リリアは眉を寄せたまま、指先を揺らす。
「……弱い」
「弱いのに、壊し方だけは上手」
その瞬間だった。
黒い染みが――滑った。
逃げる、というより、流れる。
床を這い、壁をすり抜け、通路の影へ。
「動いた!」
リリアが声を落とす。
「こっちじゃない!」
レインが即断する。
「追う!」
全員が動く。
だが――
次の通路に出た瞬間。
そこにいたのは、厄災じゃない。
影が、ひとつ。
子供ほどの背丈。
二足で立つカエル。
忍者みたいな帽子を被り、背に棒を背負っている。
「うわ、なんだこれ……!」
カエルが叫んだ。
「やめてくれ! おれは――」
言葉が途切れた。
黒い染みが、カエルの足元から絡みつく。
水じゃない。影でもない。
嫌な粘り気のある“何か”。
そして、吸い込むように――飲み込んでいく。
カエルの目が、濁った。
黒い靄が、奥に絡みつく。
「……っ」
ルルカが一歩出る。
グロウが盾を構える。
ベルクが剣を振り上げる。
「止める!」
レインが叫ぶ。
「引き剥がせ!」
だが、間に合わない。
取り込まれたカエルが、急に暴れ出した。
さっきまでの怯えとは違う。
動きが、“洗練されている”。
飛ぶ。
跳ねる。
壁を蹴り、天井を走る。
そして――まっすぐ、こちらへ突っ込んでくる。
「来る!」
グロウが盾を出す。
ぶつかったはずなのに。
すり抜けた。
盾の端を、黒い靄が滑っていく。
ベルクが目を見開く。
「おい、今――!」
次はノーベルの結界。
銀髪の男が鐘を鳴らす。
――ゴン。
膜が張る。
だが――
それすら、すり抜けた。
ノーベルが低く言う。
「……敵意がない」
「だから“壁”として認識されとらん」
理解できない。
理屈の外側。
取り込まれたカエルが、一直線に走る。
向かう先は――後方。
エリオ。
レインが声を荒げた。
「エリオから引き離せ!」
ベルクが飛ぶ。
ルルカが魔法を放つ。
グロウが踏み込み、盾で押す。
だが、届かない。
黒い靄を纏ったカエルが、エリオの目の前に――
止まった。
ぴたり、と。
さっきまでの暴れが、嘘みたいに。
エリオは動けなかった。
怖い。
でも、目を逸らせない。
カエルの目の奥で、黒い靄が揺れている。
それが、今にも溢れそうなのに――
溢れない。
空気が、静かになった。
ベルクが呟く。
「……なに?」
「安定してる……?」
ルルカが、息を飲む。
「いいえ……」
「これがエリオの力よ」
エリオは何もしていない。
ただ、そこにいるだけ。
なのに。
歪んだはずの“場”が、整っていく。
壊れるはずだった流れが、正しい方向へ戻される。
黒い靄が、少しだけ薄くなった。
レインが叫ぶ。
「今だ!」
「引き剥がす!」
ルルカが手を伸ばす。
リリアが指先を揺らし、魔素の流れをずらす。
グロウが盾で受け止め、ベルクが剣で“押し出す”。
そして――
黒い染みが、ぽろりと剥がれた。
床に落ちる、というより、溶けるように消える。
その瞬間、取り込まれていたカエルが、膝から崩れ落ちた。
「……っ、はぁ……っ」
荒い呼吸。
レインが眉を寄せる。
「厄災はどこへ行った?」
リリアが近づき、鼻先をわずかに動かす。
「……まだいるわ」
静かに言った。
「この子の中に、“かけら”が残ってる」
一拍。
「正確に言うと」
「一部は、消えたわ」
そう言って、
カエルの胸元を指す。
「……でも、よく見て。残りはここ」
リリアは、少しだけ首を傾げた。
「不思議ね……」
「さっきまでの嫌な匂いが、しない」
ベルクが一歩寄り、睨む。
「……おい。大丈夫か?」
カエルは返事をしない。
目は閉じたまま。
だが、胸が上下している。
生きている。
ノーベルが鐘を握ったまま、低く言う。
「……エリオがいなかったら、終わっとったな」
エリオは、息を吐いた。
自分の手が震えていることに、今気づく。
(……整えた?)
(俺が?)
答えは出ない。
ただ、確かに。
壊れるはずのものが、壊れなかった。
その時。
カエルの指先が、ぴくりと動いた。
瞼が、震える。
次の瞬間。
目が開いた。
「……ここどこだ!?」
叫び声が、通路に響く。
その目は――濁っていない。
だが。
エリオは見た。
その奥に、ほんの少しだけ。
黒い靄が“残っている”のを。
リリアが、静かに笑った。
「起きたわね」
「あなた――面倒なものと、適合したみたい」
エリオとカエルが、同時に固まる。
「えっ」
「えっ!?」
レインが剣を下ろさずに言った。
「話は後だ」
「ここは長居する場所じゃない」
ベルクがぼそりと吐き捨てる。
「……また、何か起きるぞ」
エリオは、確信していた。
厄災は、終わっていない。
ただ。
“次の形”を手に入れただけだ。




