第27話 境界が歪む
森が、途切れた。
地面の色が変わる。
木々の配置が、不自然なほど整っている。
――境界だ。
「ここからだ」
レインが、足を止めた。
「ダンジョン入口」
ルルカが、周囲を一度見回す。
「……前回来た時より」
「薄気味悪いわね」
小さな水たまりが、エリオの足元にあった。
靴先が触れる。
波紋が、ゆっくり広がる。
ベルクが言う。
「震えてるな」
「無理なら帰れ」
「ダンジョンは弱い奴から死ぬ」
エリオは答えない。
波紋が、まだ消えない。
靴を踏み出す。
水が、静かに割れた。
「……帰らない」
「リュカを安心させたい」
「自分の目で確かめる」
ルルカが小さく笑う。
「よく言ったわ」
リリアが目を細める。
「男の子って感じね」
レインは短く言った。
「気を抜くな」
「入るぞ」
⸻
一歩、踏み込んだ瞬間。
空気の“向き”が変わった。
湿り気が薄い。
なのに、冷たい。
音が、吸われる。
ベルクが、低く吐き捨てる。
「……変わってやがる」
ルルカが眉を寄せた。
「変形ダンジョンね」
「厄介。これじゃ捜索に普通は時間がかかるわ」
一拍。
ルルカは、横にいるリリアを見た。
「……でも」
「こっちには、リリアがいる」
リリアは、楽しそうに口元をゆるめる。
鼻先を、ほんの少し動かした。
「ええ」
「この“異質な匂い”……こっち」
指先が示す先。
そこには、道があるはずの場所に――“道がない”。
壁のように見える岩肌。
けれど、リリアが一歩寄ると、そこだけ空気が薄く揺れた。
「通れるわ」
レインが即座に判断する。
「行くぞ。縦列」
グロウが前に出て、岩肌へ肩を押し当てる。
石は、抵抗なく沈む。
まるで、最初から“通路だった”みたいに。
エリオの背中が、ひやりとした。
(……作り替えられてる)
(誰かが、今も動かしてる……?)
⸻
進むほど、ダンジョンは静かになる。
足音が半拍遅れて返ってくる。
自分の呼吸が、他人のものみたいに響く。
ルルカが小さく舌打ちした。
「嫌な静けさ」
リリアは断言する。
「匂いが、濃くなる」
「……湖に近い」
そして――
通路が開けた。
湖が見えた。
水面は鏡みたいに静かで、波紋すら広がらない。
色が、わずかに濁っている。
レインの声が落ちる。
「……ここだ」
ベルノの腰元で、金色の鐘が揺れた。
――チリン。
まだ乾いた音。
だが、次の一歩で変わると――なぜか全員が分かっていた。
⸻
リリアが足を止めた。
全員が止まる。
彼女は、迷いなく言う。
「いるわ」
一拍。
「しかも……前より“近い”」
ベルクが、一瞬だけ真顔になった。
静かな空気の中で、
金属がかすかに擦れる音がした。
――チリン。
乾いた音が、ひとつ。
まだ、いつもの音。
レインが短く指示する。
「結界を展開」
「前衛は二歩前」
「無理に踏み込むな」
ベルノが指を鳴らす。
ぱっと、薄い光の膜が広がる。
結界が、形になる。
グロウが前に出る。
大盾を構える。
ベルクは一歩遅れて、手袋を締め直した。
エリオは、結界の内側に残る。
視線だけが、湖面から離れない。
そして――
湖畔に、足がかかった瞬間。
――ゴン。
鐘の音が変わった。
その音に、ベルノは一度だけ目を伏せる。
「……ノーベル、任せた」
金色の鐘が、
乾いた音ではなく――
腹の底に落ちる、重い一発を鳴らす。
次の瞬間。
ベルノの髪が、
ゆっくりと金から銀へと色を変えた。
空気が、張りつめる。
レインが、ちらりとベルノを見る。
「……ここで、ノーベルか」
それだけ言って、
レインは剣の柄を強く握り直した。
エリオを除く全員が、
もう彼を“軽い男”とは見ていなかった。
次の瞬間、
全員が同時に息を止める。
髪が、風もないのに揺れたように見えた。
低い声。
「……来るよ」
別人みたいだった。
エリオは思う。
(ノーベル人格が……変わった?)
でも、口に出す暇はない。
湖面の下。
黒い影が、走った。
形が定まらない。
水と影の中間みたいな、嫌な“何か”。
ぐるり、と回り――
エリオの位置に合わせて、わずかに“ずれた”。
エリオの喉が、鳴る。
(……逃げてない)
(見られてる……?)
その瞬間。
湖面から、細い影が伸びた。
攻撃じゃない。
触れただけ。
なのに――結界の表面が、じゅ、と削れた。
ルルカが目を細める。
「……触っただけで、削るの?」
グロウが盾を押し出す。
影が盾に触れ――やはり、削る。
グロウが唸った。
「……硬い」
「厄介ね」
リリアが言った。
銀髪の男――ベルノ――いや、ノーベル人格が、短く言う。
「結界が削られとる」
「リリア、周りの魔素を抜け」
「了解」
彼女が片手を上げる。
周囲の魔素が、吸い上げられるように集まる。
空気が、すこし軽くなる。
影の動きが、鈍った。
ほんの一瞬。
湖面の黒が薄くなる。
レインが短く言う。
「効いてる」
ノーベルが低く続ける。
「……やつが引いていく」
「追うか。どうする?」
鐘が、一回だけ鳴った。
――ゴン。
撤退とも、追撃とも、まだ決めていない音。
レインが即答しない。
代わりに、ルルカが湖面を睨む。
「もう……見つからないわね」
湖が静かになる。
まるで、最初から何もいなかったみたいに。
でも、リリアが首を横に振った。
「違うわ」
声が、落ちる。
「場所を変えたのよ」
「次の獲物を狙って」
ルルカが、息を飲む。
「……匂いが?」
「動いたわ」
リリアが断言する。
「こっちじゃない」
レインが、短く言う。
「追う」
全員が動き出す。
エリオも走り出す。
その背中に、湖が静かに沈む――はずだった。
けれど。
湖面が、わずかに揺れた。
波紋じゃない。
“揺れ”だけ。
まるで――
次は、逃がさないと言うように。
エリオは、振り返らずに確信した。
これは戦闘じゃ終わらない。
そして――自分は、もう見られている。




