第25話 夜明け前の鐘
夜明け前。
風の街は、まだ眠っていた。
通りの布も、看板も、いつもほど騒がしくない。
風が――息を潜めているみたいだった。
エリオは、ギルドの前で立ち止まる。
冷たい空気を吸い込み、吐く。
(……行くんだ)
怖い。
でも、引き返したくない。
扉の向こうから、足音が聞こえる。
――チリン。
金属の乾いた音が、一つ。
エリオの背筋が、自然と伸びた。
黄金の鐘持ち団は、もう来ていた。
⸻
ギルドの中。
灯りは落とされ、必要な場所だけがぼんやり明るい。
受付にはローラがいて、眠そうな目で、それでも完璧に仕事をしていた。
「おはよう、エリオくん」
「今日は……気をつけてね」
「はい」
奥の方では、すでに空気が出来上がっている。
軽装の男――先頭の冒険者が、無駄なく荷を締め直していた。
ドワーフの大男は、無言で斧の柄を撫でている。
そして。
「いや〜、朝って肌が乾くよな〜」
「ローラ♪ ローラ♪ 今日の俺、めっちゃ命がけ♪」
場違いに軽い声。
金髪の男――ベルノが、腰の鐘を鳴らしながら、受付へ手を振っていた。
「……やめろ」
ベルクが、低く言う。
「え? なんで? 死ぬかもしんないんだぜ?」
「こういう時こそ、人生楽しんだ方がよくない?」
「……黙れ」
ベルノは、へらっと笑った。
――チリン。
鐘が揺れるたび、空気が引き締まるのが分かる。
本人の軽さが、逆に不気味だった。
「相変わらずね」
横から、甘い声が落ちる。
リリアが、ゆったりと近づいてきた。
髪が揺れ、笑みが薄く浮かぶだけで、周囲の男が息を呑む。
「ここ、やっぱり匂いが変」
「面白いわ。ほんと」
ルルカが、腕を組んだまま言う。
「姉ちゃん」
「エリオに変な目、やめて」
横で様子を見ていたエリオは、思わず目を瞬いた。
(……姉ちゃん?)
一瞬、頭が追いつかない。
そんなエリオの迷いをよそに、会話は流れていった。
「冗談よ」
リリアは肩をすくめ、くすりと笑った。
「でも……守りたくなるの、分かるわ」
ルルカが、むっとする。
「守るのは、わたし」
「横取り禁止」
「はいはい」
そのやりとりを、ギルド長が咳払いで切った。
「出発だ」
「目標は、例のダンジョン。湖の区画」
ベルクの指が、わずかに止まる。
湖。
その単語だけで、空気が一段冷えた。
「……エリオ」
ギルド長が続ける。
「前に出すぎるな。今回は“観察”が主だ」
「分かりました」
ルルカが、にっと笑う。
「大丈夫。死なせないわ」
「たぶん」
「“たぶん”を付けるな」
「正直が一番よ」
ベルクが、短く息を吐いた。
そして――エリオは、ふと思い出した。
今日、連れて行けない。
リュカのことを。
⸻
ギルドの外。
風は冷たい。
だが、静かだった。
エリオは、出入口の脇に立つ小さな影を見つけた。
リュカ。
ぼさぼさの髪。
俯いた目。
けれど、今日は“逃げる姿勢”じゃなかった。
ただ、そこに立っている。
「リュカ」
声をかけると、彼女の肩が小さく揺れた。
エリオが近づく。
リュカは、一歩――出そうとして。
止まる。
指先が震えていた。
エリオは、言葉を探す。
「……どうしたの? こんな朝早くに」
言い終わる前に、
リュカが、エリオの手を握った。
冷たい指。
「……お願い」
小さな声。
でも、逃げていない。
「リュカの分まで……」
「え?」
エリオの口から、間の抜けた音が漏れる。
リュカは俯いたまま、続けた。
「行ったら……邪魔になる」
「それだけは、分かってる」
一拍。
指先に、力がこもる。
「……でも」
「向き合うのは、逃げない」
エリオは、言葉を失った。
大丈夫だ、と言いたかった。
けれど――その言葉は、軽すぎる気がした。
簡単に、答えを出していい話じゃない。
だから。
「……分かった」
短く、はっきり言った。
リュカの指が、少しだけ緩む。
それでも、離れない。
「必ず、戻る」
その一言に、
リュカは、ほんの少しだけ頷いた。
「……戻ったら、話そう」
それだけ言って、
エリオは、手を離した。
一拍。
「それと」
「俺が、ちゃんと見てくる」
「……何を?」
リュカの声が、少しだけ上がる。
エリオは、まっすぐ答えた。
「怖いものの正体」
「それが、お前のせいじゃないってことも」
リュカが、言葉を失う。
しばらく沈黙。
そして――
「……行って」
リュカが、かすれた声で言った。
「……ちゃんと、帰ってきて」
その言葉だけで、胸が熱くなる。
「うん」
エリオは短く頷いた。
背中越しに、風が吹く。
不思議と――
今日は、何も起きない。
⸻
「おい、エリオ」
ベルクの声が飛ぶ。
振り返ると、隊が整っていた。
先頭の男が、短く言う。
「出る」
ベルノが、鐘を指で弾いた。
――チリン。
「よっしゃ! 冒険の時間!」
「ローラ、帰ったらデートしよな!」
「……はいはい、帰ってきたらね」
ローラの返しが雑で、逆に強い。
ルルカが、エリオの背をぽんと叩いた。
「ほら」
「行くわよ、“わたしの”」
「その言い方、やめてください」
「やだ」
リリアが笑う。
「仲いいのね」
エリオは小さく息を吐き、最後にリュカを見る。
リュカは、まだ俯いている。
でも――ちゃんと立っていた。
エリオは、前を向く。
この一歩は、逃げない一歩だ。
――チリン。
黄金の鐘が鳴る。
風の街の静けさを割って、
調査隊は、夜明け前の道へ踏み出した。
湖の匂いが、少しずつ濃くなる。
そして。
その匂いの奥に――
“知らない冷たさ”が、混じっていた。




