第四章 愛の終わり
春の終わり、灰色の空。
朝露を吸った石畳の上を、エステルの足音が静かに響いていた。
馬車の支度がされる中、誰もが口を閉ざしていた。
侯爵家の者たち──かつて「夫人」と呼んでいた者たち──は、ただ遠巻きに見ていた。
彼女がこの家を去る日。
それは、誇りを胸に生きてきた一人の貴婦人が、すべてを背負って立ち去る瞬間だった。
前夜、離縁の書類が手渡された。
署名欄にはディビッドの端正な筆跡が記されていた。
「念のため、慰謝料は十分に──」
そう言った彼の声は、どこか安堵に近かった。
「……ありがとうございます。侯爵閣下」
“あなた”ではなく、“侯爵閣下”。
エステルは、最後の言葉すら彼に個人として与えなかった。
妹ミラは姿を見せなかった。
だが彼女が、すでに侯爵家の「新しい夫人」として振る舞っていることは、屋敷に渦巻く沈黙がすべてを物語っていた。
義母は階段の上から見下ろしていた。
エステルと目が合っても、何も言わなかった。
だが、微かに笑った。
「奥様……その、どうか……」
一人の年老いた侍女が声を震わせて駆け寄ってきた。長年仕えていた彼女だけが、最後の見送りを許された。
「お気をつけて……どうか、どうかお幸せに……!」
その声に、エステルは静かに微笑み、はじめてわずかに涙をにじませた。
「ええ。ありがとう。私は大丈夫よ」
そう言って、エステルは馬車に乗り込んだ。
城門が閉まり、馬車が動き出す。
カーテン越しに見えたのは、見送る者のいない庭。
石造りの館。
かつて愛した男が、別の女を迎える家。
けれど、エステルは振り返らなかった。
この先、彼女の人生に「侯爵夫人」としての肩書きはもうない。
だが、失ったのは名ではない。信じた愛の終わりだった。
だからこそ、彼女は心に誓った。
――私を、取り戻す。
女として、そして誇り高き貴族として。
雨が降り出した。
けれどそれは、悲しみの雨ではなかった。
それは彼女を清めるための、静かな洗礼だった。