第一章 愛の始まり
エステル・クラウゼンは冷たい薄明かりの中で目を覚ました。
目覚めの最初に感じたのは柔らかな絹の感触でも鳥のさえずりでもなく、彼のぬくもりだった。
隣にはまだ若いディビッド・クラウゼン。
侯爵家の若き当主にして、政略結婚の多い貴族社会では珍しい――“恋愛結婚”で結ばれた夫である。
「…起きてるのか?」
低く少し掠れた声に、エステルはかすかに笑って頷いた。
ディビッドが彼女の長い髪に触れ、ゆるやかに撫でる。
「…愛してるよ」
――あのときは何も疑っていなかった。
言葉ひとつ、眼差しひとつで、永遠を信じていた。
エステルはあの朝を長い年月が経っても忘れなかった。
結婚は王都の噂になるほどの話題だった。
エステルはロラン伯爵家の長女。決して派手ではないが誇り高く美しく、知性と教養を備えていた。
一方のディビッドは次代を担う若き侯爵。権力も財力もあったが、冷静で人を寄せつけない男として知られていた。
そんな彼がエステルには心を開いた――と誰もが言った。
ふたりの婚約が発表された夜、ロラン伯爵家では祝宴が開かれた。
エステルの妹、ミラは嬉しそうに姉の手を握り、無邪気に言った。
「お姉さま、夢みたい。私、ずっとお姉さまが幸せになれますようにって祈ってたの」
その言葉が、どんな毒を含んでいたかを、当時のエステルは知らなかった。
結婚後の暮らしは穏やかだった。ディビッドは口数が少なく執務室にこもることが多かったが、ふたりの距離はしっかりと結ばれているとエステルは信じていた。
彼が忙しくて帰りが遅い日も、冷たい態度を見せる日も、
「疲れているのね」と受け入れた。
愛していたから、疑う理由などなかったのだ。
だが――
それは、“信じる”という名の、緩慢な死だったのかもしれない。
ある春の日、義母であるクラウゼン元侯爵未亡人がふと夫に告げた。
「あなた、あの子とお似合いね。…ミラさんの方が家風に合うかもしれないわ」
エステルはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
――妹の名が、なぜ義母の口から出たのか。
その日を境に彼女の中で何かが少しずつ、静かに崩れていった。