文学というものについて、どうにもわからぬことがある
答えの出ない、あるいは固定の答えが出せないものを考えまくるのはわりと好きという、その産物でもある。
つまり私がドのつく内向型である証左の一つ。
文学性や文学的という言葉の作品例示に依らない具体性のある指標ってなんだろう。
転じて、任意の作品を「文学」と認める一般的ハードルはなんなんだろう。
※以降一般的にこのハードルを超えたと思われる範疇を「狭義の文学」とします。
大学時代が日本文学科だったので、文学の研究の一端を、これでもわりと真面目に、具体的には卒論をA4で28ページ書いて口頭試問でも「一箇所ぐらいしかツッコミどころないんだよね」って教授に言われるぐらいには真面目にやったのだけど、こればっかりはマジのマジでわかんないのです。
あ、卒論だけじゃなくて一年の頃の講義から「あのレポート膨らますと普通に卒論にできるよ」とか言われるぐらい真面目に本気でやってましたよ、マジで。金銭その他考えて院には行かなかったけど。
でも、やっぱり世間一般における「狭義の文学」というものの存在自体がよくわからんのです。
文学研究の対象としての学術的な視野で見るなら、ラノベ(web発信なろう系含む)もマンガもアニメもそれこそ2.5次元舞台もミュージカルも、なんもかんも文学と言えるので、それらを「文学足りえない」と判断する指標がわからんのです。
※以降この学術的視野で見た文学の範疇を「広義の文学」とします。
まー、私の専攻・副専攻周りがどっちも近世以前(専攻:中世説話、副専攻:江戸期大衆文学)ってのが影響してる可能性はあるけど。
そもそも、近代、現代における「文学」というものは、literatureないしそれに準ずる欧米圏言語の翻訳から生まれた概念のはずなので、文明開化による価値観の転換=パラダイムシフトの産物の一つなのは間違いない。
であれば、私の専門はそのパラダイムシフトが起きる前なので、その中に簡単に見つからないのは残念だが当然の話。
パラダイムシフトの段階で、連綿と続いてきた線が一度途切れてるようなもんだからね。
でもよ、でもですよ。
だからといって、パラダイムシフト以前を「狭義の文学」と見なしていないわけじゃない。
というか、「古典」という分野の「狭義の文学」としての資格が与えられているのですよ。
なのに、江戸期の黄表紙、読本、合巻の系譜上にあると考えられるラノベとかマンガとかを、「古典」かどうかで「狭義の文学」と「狭義の文学未満」に切り分けて考えるのがわからない。
だって、どちらも「広義の文学」上は「文学」に違いないのだし?
なんでわけるのかがわからない。Why?
そもそも、パラダイムシフト以前も以後もその系譜が同じ以上、同じ扱いでよくて、発展史・受容史的な価値は普通にあるのでは?
「古典」という分類が一定の時を経ることを条件に付与されるなら、時が過ぎ去る以上、古典なんて年々増えるはずなのだが?
まして、現代は紙のちゃんとした出版物は国立国会図書館に納本されるから、図書館のポカミスや壊滅的状況にならぬ限りは、同人誌とか原稿とか自費出版系の範囲ぐらいしか散逸の可能性はないので、「読みつがれない事による完全なる淘汰」があまりにも少なくなるわけなのだが〜?
というわけで、わからない。
文学学んでたのにわからない。
心底わからない。
そうなる理屈が見えない〜。
いや、外国文学系の科の人はまた違うかもしらんけども。
……うん、外国文学系は趣味の範疇で伝承・昔話周りをげへげへ言いながら収集してるだけだからね、私。
まあ、そんな感じで「狭義の文学」自体に対する一般の線引きも疑問なのですが、同時に、その判定に作品例以上の具体性がないのであればこそ、何故か近代、現代に巣食う「文学とは高尚であれかし」、「文学はある種の権威性に似つかわしくあるべし」的なよくわかんない一般的な固定観念も私にはよくわからんのです。
よくわかんないって二回言うぐらいにはわかんないわけですよ、わかりやすいね、わかんないけど。
とはいえ、過去のノーベル文学賞見ると、全世界規模くさいですけど、この固定観念。
ええはい、ボブ・ディランの時の事を指しておりますよ。
いや、アレはマジで「なんで……?(反対する思考回路がよくわからない、詩はよくて歌詞がダメな理由がわからない)」ってなった。
逆にこうした固定観念ができなかったのは、私個人に、児童書の系譜から読み漁り続けて、ラノベ系とか経由した、それこそ江戸期の黄表紙のターゲッティング層の遷移と系統的にはほぼ同様の読書経歴があるからかもしらんですけど。
いやあ、自分達も自由に本読むから自由にさせてくれた両親には感謝……というか好みの方向込みで遺伝性オタクなんだよな、完全に。
とまれ、つまるところ、私の中で読書とは「面白いと感じるものを面白く読むもの」であって、「常にしかつめらしいものであるべくもない」し、「常に勉強になるべきものでもない」のです。
だって望まぬ苦行は誰だって嫌じゃんね。お釈迦様だってアレ望んだ苦行やぞ。
私、読書人生において、必修単位の関係の課題ぐらいですよ、イヤイヤ読んだものは。
うん、避けられなかった近代文学……とはいえ過去に自発的に(よりによって)『ドグラマグラ』読んでたこともあったけど。
え? 古文? 訳すのは別の思考回路使うけど、今昔物語とかぐらいなら、内容理解するのはわりと楽勝だし楽しいよ?
あ、欧米系言語の資料はね、一度Google翻訳で英訳を潜らすとわかりやすいよ?
……コンテクストベース(いわゆる「国語ができる人」のセンス)読解と理屈ベース読解のハイブリッドで文章を読みさばいてる人間の戯言ですよ、ええ。
まあ、その、とにかく、なんだ、薪にしかならない発言になるとは思いますけど、めちゃんこ正直に言えば、私は「狭義の文学のみ文学として然るべき」論が、思考停止の極地における視野狭窄にしか見えないので、嫌いなんですわ。
別にそれが個人の尺度であると自覚できてれば、個人主義で「はあ、さいですかー(視野狭いかもしらんけどまあ個人差、個人差)」で終わりなんだけど、それがない「然るべき」論の押し付けがマジのマジでダメなんですわ。
がっちがちに迎撃用理論武装を用意してるぐらいにはダメなんですわ。
幸いなのはリアルでふるったことはないってとこですかね……数は少ないが友人に恵まれておりますわ。
まー、その辺りは以前に某所……カいてヨむとこで一度喧嘩売るようなきっちきちのタイルみたいな理詰めの前フリをした上で、「文学の権威性とは、文学性のありかとは」という問いと自己回答を発してますけども。
怪文書の中に差し込まれたさらなる怪文書になってるんだけどね、アレ……
今回はそこまで理詰めはしません。疲れるからね。
気になったら石ではなくオナモミをご用意の上、某所で調べておくんなまし……オナモミの理由はたぶんたどり着いてもらえればわかる。
Q.つまりお前は何が言いたいの?
A.以下の問いを提示したい。
①文学性や文学的という言葉の作品等に依拠しない明確な指標は何だと思いますか?
②文学にあるとされるその権威性は何に依拠すると思いますか?
③ここで言う「狭義の文学」たる定義はなんですか?
とまあ、そういうことなのです。
なお、自己回答は
①そもそも「文学性」、「文学的」というもの自体、明確には存在しない
②その権威性自体が、文学が権威あるものとして思考停止で繰り返された結果、そのミームに積み上がって出来上がった幻
③幻に踊らされて出来上がった、さもそれらしい権威がありそうな個人の主観的なまやかし
という我ながら激辛激苦な自覚があるものとなります。
あ、先に湧き潰ししとくと、「古典と現代の作品は異なる」という論を展開する方、いると思います。
私の反論は「コンテンポラリーな時点において現代の作品を古典と呼べないのは当然であるが、その一方で年を経た未来の時点から現代を見れば全部古典なんだから、現代で古典と呼ばないものを排除するのは、経年と未来の研究者への冒涜であり、思考停止です」になります。
棘は多量にあります、雲丹みたく。
うん、音楽におけるジャズがクラシックかというと違うけど、初期曲の古さとしては普通に古典じゃん? みたいな?
ジャズじゃなくてロックで考えてもいいよ。というかジャンルとしてのプログレッシブロックとか、原義と実態がね……進歩的と言いつつ、一ジャンル形成しちゃった時点で定義というか概念としては固着してると言えるので、進歩的、とは……うん、なんだって古くなってくわけなのですよ。
あと、媒体論もそれは違うと思うのです。
だって歌舞伎や能や狂言の研究は衣装にも動作にも及ぶし、実際の上演映像も対象なのだから、そうなると戯曲系列の研究範囲は同じじゃーんね?
本や紙の媒体外の部分が文学研究の対象になる以上、そこに媒体論を持ち出すのはやっぱり違うのです。
むしろ、これも未来志向でいくなら、今現在の我々が想像もつかないような媒体が出てもおかしくないし、実際今もwebやらそれ以外の電子媒体が世を席巻してるわけだしね。
媒体は所詮、媒体でしかなくて、主体である中身を見失ってはいけない。
まあ媒体側の研究もあります(書誌学)けど、それはそれ。
そうした観点も含め、私は「狭義の文学」と「広義の文学」は分けずにひっくるめて「文学」という混沌の玉石混交地帯であるべき、と思うのです。
石がなかったら玉なんて産出しないし、磨かない玉よりか磨いた石の方がキレイまであるしね。
そして、その沼で遊ぶのが楽しいと思うのです。
まー、迎撃用理論武装の中核はここに書いた通りの「経年による古典化」の話が大部分なんですけどね。
そして、だからこそ「ジャンル差別良くない」の精神もあるので、いわゆるじゃがいも警察に類する行為に対して、私は「うーん、漱石の『それから』にもツッコミを入れてたら許すぞ!」ってところがあります。
あ、このツッコミ、不倫云々に対してではありませんよ、コンバラトキシンについてです。