学園長から
大きな鉄柵の校門をくぐり、ポケットに手を突っ込みながら銀杏の並木道を歩いていた。昨日雨が降ったからだろうか、銀杏の黄色い落ち葉で彩られたこの道は、太陽の光を受けて光沢を帯びているように見える。まだ人はまばらで、私以外に誰もいない。朝練がある生徒は既に活動しているし、クラブに入ってない人はもっと遅くに来るから、ちょうど人のいない時間に来てしまったようだ。軽快な音が間を置いて響く。左側のテニスコートで試合が行われているようだ。私は立ち止まって、樹々の間から部活動の様子を見る。そういえば、スポーツは得意だし、何度かクラブに誘われたこともあった。だが、全て断った。そんな気になれないのだ。私には病んだ父がいる、復讐という使命がある。クラブ活動にうつつを抜かしている暇は無かった。もし私が普通の少女らしい少女だったら、あの子たちに交じってラケットを振り回していたのかもしれない。
「御機嫌よう!志月さん!」
「……間宮さん。御機嫌よう」
背後からの快活な挨拶に少し驚く。でも、そんな素振りを一切見せずに振り向く。間宮さんは私のクラスメイトで席も近い。この前、マリー事件の真犯人の噂をしていたのは彼女だ。声が大きくて噂好きのおませな子……そんなタイプだ。ピンク色の髪の毛をツインテールにまとめていて、髪留めにはカエルの紋章が刻まれている。カエル好きなんて女の子にしては珍しい趣味をしている。
「テニス興味あるの?まさか、これから入る予定とか~?」
「ないよ。ちょっと見てただけ。間宮さんも知ってるでしょ?私はクラブはやらないって」
「そうだけどさぁ。勿体ないよね。ほら、この前のバレーの時もそうだったけど、志月さんって運動神経抜群じゃん?みんな”王子様”の力を借りたい~って思ってるのに」
――”王子様”。
周りの人は私を持ち上げるつもりでそんな風に呼ぶ。確かに、私は他の人と比べてちょっとボーイッシュなところがあるかもしれないけど、そんな名称は私にとって有難迷惑だ。私は普通の女の子。みんなどうして私のことを王子様って呼ぶんだろう。こんなニックネーム、半年前まで聞いたことも無かったのに突然流行り出して……。私はうんざりして、間宮さんを邪険にする。
「私、興味ないって言ってるよね。しつこいよ」
「えへへ♪怒っちゃった?」
屈託のない笑顔を私に向ける間宮さん。天然なのかわざとなのか……とにかく、人をイラつかせる才能はありそうだ。ったく、苦手なんだよ、こういうタイプ。
「ああ。あとさ、昨日の放課後すぐ帰っちゃったでしょ?」
「そうだけど。どうして?」
「ん~?ほら、学園長がさ、志月さんのこと探してたんだよねぇ。何か話があるみたいだよ?だから、今日呼ばれるかもね」
――学園長が私を!?
私は立ち止まる。学園長――光樹怜奈。光樹眞理衣の母親であり、ローリエ学園の全権力を掌握しているトップ、そして私のお父様を不正選挙で負かして地獄に叩き落とした張本人。マリーと同じく、私が憎しみを抱いている相手だ。
「間宮さん。学園長が今更私に何の用なんだろうね」
「え?は?いや、私に聞かれてもわかんないよ」
私は血走った眼で彼女を睨みつける。間宮さんは蛇に睨まれた蛙の如く、固まってしまう。
「志月さん?ど、どうしたの?」
「……何でもないよ」
私はそう言い捨てると、彼女を置き去りにする。あいつ……なに考えているんだ?まさか、マリーへの仕打ちがばれたのだろうか?事故じゃなくて暴行だということがわかったのか?もし犯人がいるとしたら、あいつはすぐさま私を疑うだろう。だって、学園長は娘である私が恨んでいることぐらいわかっているはずだ。そのために、まずはマリーがやられたのだろうと。いや、だとしても証拠不十分だ。私にあるのは疑いだけであって、確たる証拠は存在しない。私は何を恐れている?何に怯えている?
間宮さんの言う通りになった。朝のホームルームで、担任の先生から放課後に学園長室に行くように言いつけられたのだ。そのせいか、今日は気が気ではなかった。授業の時間も、お昼も、休憩時間の読書も、どれも上の空で胸が苦しかった。放課後になった。私は荷物をまとめると、潔く早足で学園長の部屋に向かうことにする。この学園は中庭を囲むようにコの字型の校舎があり、学園長がいるのはこの校舎から西側の外れにある旧校舎の三階だ。旧校舎は実験室とか進路相談室とか物置とか、特別な授業や用事がある場合にしか行かない空間として認知されている。特に、学園長室のある三階は空き部屋も多く、生徒は滅多に足を踏み入れない。私自身も本当に久しぶりだ。古い木造の廊下を歩く。節約のためだろうか、廊下に電気はついていない。窓から差し込む四角い形をした光だけが明るさを演出している。校庭から響く生徒たちの遠い声が、この校舎をより一層寂しくさせている。コツコツ――靴が床を叩く音。廊下の一番奥の部屋が光樹学園長のところだ。栗の殻のような見た目をした、年季の入った重そうな木の扉を、私はコンコンコンと三回叩く。
「どうぞ」
中から女性の声がする。私は鉄製のドアノブをゆっくりと回して中に入る。
「失礼します。志月朔良です」
「あら、いらっしゃい。どうぞ、ここにお座りなさい」
艶やかなとび色の髪をした上品な女性――学園長は黒皮の高級そうな椅子に座りながら、指で私の席を示した。やや濃い目の化粧で、紫のアイシャドウが塗ってある。真紅色の唇が艶々している。何か書類を片付けていたのだろうか、机上には紙が散らばっている。彼女はゆっくりと腰を上げて、大きく息を吐いた。私はその動作を静かに観察する。私の向かい側には天井まで届く大きな本棚があって、丁寧な装丁がなされた分厚い本が隙間なく埋められている。部屋は全体的に薄暗くて、学園長の背後にある、壁にはめ込まれた大きな窓が無ければ、採光は著しく弱いものになっていただろう。
「んんっ。げほげほ」
学園長は咳をしながらソファーに深く腰掛ける。私と彼女は向かい合って座る。眼鏡を通して見える彼女の瞳は、氷のように冷たかった。
「えー、志月朔良さんね。ごめんなさいね、忙しいというのに」
「いえ。私はクラブに入っておりませんので。放課後は暇ですよ」
「あら?そう」
学園長の声はハスキーで大人の女性らしいが、どこかくぐもったところがある。流暢に話すタイプではなさそうだ。
「今日、あなたを呼んだのは他でもない、次期生徒会長のことなの」
「はぁ」
彼女は続ける。
「ほら、生徒会もそろそろ引き継がなくちゃいけないから……候補を探しているわけね。立候補制なんだけど、私としてはぜひとも志月さんを推薦したいって思ってるの」
なんだ、生徒会の話か……。私は思わず脱力する。張り詰めていた緊張感が和らいだのがわかった。マリーのことではないのか。
「どうして私なんですか?他にも適任の人がいるでしょう?」
「いえいえ!みんな億劫になっちゃって立候補しないのよ。それでね、現体制の生徒会も困っちゃって。ほら、志月さんは成績優秀だし運動もできる。何よりみんなから尊敬されているでしょう?」
私は不意に笑う。
「私が?そんなことありませんよ」
「ふふ。そうかしら。みんなあなたに憧れてるのよ?それに、ほら……えっと、”王子様”だっけ?そう呼ばれるほどなんでしょう?」
また王子様。まさか学園長までこの呼称を知っているなんて。二倍不快だ。だが、私はそれを一切顔に出すことなく、生徒会長の話に戻る。
「私では手に余ります。人望なら学園長の娘さんの方があるでしょう。光樹眞理衣さんの方が」
「眞理衣が、ねぇ。はぁ……」
学園長は急に表情を曇らせ、躊躇いがちに言った。
「きっとあの子じゃ無理ね。やる気はあるかもしれないけど、能力がちょっと、ねぇ?あの子、この前の数学のテストで赤点ギリギリだったんだから。運動神経だって……階段から転げ落ちるくらいだし。ああ、我が子ながら情けない」
学園長のマリーに対する認識は、私にとっては結構意外だった。どうせ大事な一人娘だし、とことん甘やかしているに違いないと思っていたのだ。わりと現実的に見ているじゃないか。
「スキルはともかく、人気はあるんじゃないですか?学園長もご覧になったことがあるでしょう?光樹さんの周りにはいつも慕ってくれる人がいるじゃないですか。色々と噂を聞いてますよ。彼女と仲良くなれば進学も安泰だって」
「とんでもない!あんなの、あの子のでっち上げなのよ!志月さんも知ってるわよね。自分は学園長の娘だから、いざとなったら学校を追い出してやるぅって……ああ!あの子のお馬鹿!そんな話あるわけないじゃない!」
え?全て嘘なのか?じゃあ、彼女が偉ぶっているのもただの虚勢?私はずっこけそうになる。でも確かに、実際に退学になった人間を見たことも無ければ聞いたことも無い。『光樹眞理衣に逆らったら退学』は……ただの噂に過ぎないのだ。
「眞理衣はとにかくダメよ。責任感が求められる生徒会のメンバーに加えられるわけがないわ。やっぱり、志月さん、あなたが適任なの。お願い、力を貸してくれる?」
実際問題として、生徒会に関して全くやる気が無かった。人の注目を集めるような立場は嫌いだし、口数少ない私はやはり向いてないだろう。王子様だのかっこいいだの、そんな黄色い声援は幻影にすぎない。心の底から私を尊敬している人間なんて誰一人もいないだろう。
「学園長。申し訳ないですが……やはり引き受けられません」
彼女は一度目を閉じて、大きなため息をついた。
「……わかりました。無理強いはできないわ。残念だけど、この話は無かったことにしましょう?」
「ええ。ぜひそうしてください」
私は話のケリがついたところですぐに立ち上がり、失礼するつもりでいた。学園長は恨んでいる相手で、一緒にいるのはとても不愉快だった。これでも抑えながら応対しているのだ。本当なら今すぐにでも殴り倒したいほどだ。学園長も席を立つ。そして、ぽつりと言う。
「……あなたのお父さんのことなんだけど」
「……っ!?」
私の足はピタリと止まる。石になったみたいに動かない。全神経を聴覚に集中させる。
「……お気の毒ね。学園のことを常に気にかけていた、たいへん立派な人だったわ。もし何か困っていたら、私に相談して頂戴ね?」
――お前に言われたくないっ!!!
「……」
私は歯を食いしばって、喉奥から飛び出しそうになった呪詛の言葉を殺そうとする。息を止めて、怒りが過ぎ去るのを待つ。そして、捨て台詞のように言い放つ。
「別にあなたに心配されなくても、私は大丈夫ですから。失礼します」
私は学園長に一瞥もくれてやらずに、扉を開けて廊下に出る。ドアが完全に閉まったことを確認すると、中腰になって思いっきり膝を拳でぶっ叩いた。物寂し気な廊下に、パンッという乾いた音が響いた。