カタツムリ
あの流血沙汰から数週間という時間が経過した。生きた心地はしなかったけれども、その様子を悟られまいと努力したことの方が、よっぽど私を疲れさせた。犯罪者のメンタリティとはこんな感じなのだろう。常に周囲の目が気になり、背中に刺さる視線の数々を嫌でも意識せざるを得ない。普段から憂鬱気味だと言うのに、さらに気持ちが沈んでくる。だが、そんな私の心配も杞憂に過ぎなかったことが明らかになる。マリーが退院してきた。まだ頭に包帯を巻いた状態で、傷痕は奇跡的に一つも残らなかったらしい。そして、私については……幸いにも何事も起こっていない。マリーは告げ口しなかったようだ。私の脅しが効いているのか、それとも別の企みがあるのか知ったことではないが、とにかく、今の時点では私の学園生活は平穏を維持している。突然、呼び出されてそのままお縄になることもなさそうだ。なんだか拍子抜けしてしまう。心配して損した。神経をすり減らした後遺症か、目の前の分厚い歴史書にも身が入らない。文字を追っているはずなのに、その内容が脳内で処理されず、眼前のインクの染みも、意味不明な象形文字だと感じられる。精神の乱れがそのまま集中力の欠如を招いているのだ。ほら、すぐ気が散って前の席の無駄話に意識が吸い込まれてしまう。
「マリー様……ちょっと様子が変わったわよね」
「そうそうー!大人しくなったと言うか……控えめになったよね」
「やっぱり怪我のせいかしら。あーもう!せっかくご機嫌伺おうと思ってたのになぁ。これじゃポイント稼げないじゃないの」
マリーに媚びを売る人間なんてこの学園に腐るほどいる。学園長の娘だもの。お友達になれば進学の際の推薦とか、いろいろな点で有利になるだろう。進学校であるローリエ学園も地に堕ちたものだ。個人の権威に頼るような校風になってしまっては……。
「ねぇねぇ。マリー様も気になるんだけど、もっと気になるのは真犯人は誰ってことだよ!なんかさぁ、ミステリー小説みたいじゃない?学園の華、栄光の美女――光樹眞理衣は誰かによって大怪我を負わされたのだ!一体誰が?陰謀が渦巻く!」
華?美女?私は思わず噴き出しそうになる。あの血だらけで捨てられた子犬みたいに震えていた彼女が?馬鹿な。せいぜい、ゴミ捨て場のガラクタ人形でしょう?
「あ、でも気を付けなさいよ。その話題、きっとマリー様の前でしたら叱られちゃう。あーあ。でも私も気になるわ。最近、この話題で学園中が持ち切りだものね?」
「もしかして犯人はこのクラスの中にいるのかも~。なーんて!」
二人はあははと声を合わせて笑う。冗談じゃない。私の意識は張りつめた状態を取り戻し、腹を抉るような緊張感に包まれる。全校生徒に広まっているらしい。いつか私の悪事が明らかになる日が来るのだろうか。いや、そんなことは無いはず。あの場には私とマリーしかいなかった。他の誰かが見ているはずがない。あれは……完全犯罪だったんだ。
――ガタッ。
私は立ち上がる。少し音を立てたので、無駄話に花を咲かせていた二人はきょとんとした顔で私を見つめる。
「……御機嫌よう。また明日」
「え、ええ。御機嫌よう」
「ご機嫌よー。志月さん」
お嬢様校であるローリエ学園に相応しい”ご挨拶”をして、私は教室を出て行く。そうだ。今はもう放課後なのだ。これ以上、心配になるような話を聞いていても気分が悪くなるだけだ。早く帰ろう。ほら、今日は秋晴れの気持ちのいい天気なんだ。肌を切るような冷風が吹くが、時に温かな陽光が撫でてくれる。外に出てみると、そこら中に落ち葉が散っていて、掃除当番の子たちが談笑しながら藁箒を掃いている。地面を擦るたびにザー、ザーと渇いた音がする。学園を囲むように植えられた樹々の根元には赤茶か黒色、または黄色の落ち葉の山がどっさりと積んであった。私は秋の和やかな風景を見物しながら、清涼なる空気を吸い込んで、ほっと溜息をついた。
――結局、私はマリーをどうしたいんだろう。復讐はする。お父様の仇を取るために。でもどうやって?まさか殺すわけにはいかないし……。
私はそんなことを思案しながらぶらぶらと歩いていた。このまま校門を出たとしてどうしようか。早く帰ってお父様を安心させてあげるべきだろうか、それとも目的もなく彷徨うかな。街路には人が少なく車通りも落ち着いていて、この静かなる季節を騒がせまいとするかのようだ。そうだ、あそこ……花壇に行こう。公園の近くのあの場所で、私はリラックスすることに決めた。自然と足が運ばれる憩いの場なのだ。
徒歩二十分ほどで目的の花壇に到達した。公園の中心部から離れた寂しいところだけど、人通りが無くて、美しい花々を一人で眺めることができる。こんなに広い公園なのに、隅っこの花壇までよく手入れがされていて、コスモス、キクの仲間、ダリア、セルビア、ケイトウ……色とりどりの宝石たちが華やいでいる。ああ……心が落ち着く。学園のみんなは私の事を『王子様』と勝手に認定しているけど、私だってちゃんと女の子らしい……花を愛でる心もあるんだから。どうして私は理解されないのだろう。どうしてみんなは私の影ばかり見て、私の心根を見てくれないのだろう。いや、愚痴を零したって無駄だ。だって私自身が彼女たちと関わりたくないし、あんな奴らと仲良くなるなんて、それこそ屈辱的なことだ。そうだ、それでいい……私はこの華たちのように、端っこのほうで人知れず微笑んでいればいいのだ……。
「はぁっ……はぁっ……」
背後に気配を感じる。乱れた息遣いが聞こえてくる。彼女は走って私を追いかけて来たに違いない。光樹眞理衣……マリー様がそこにいた。
「見つけたわよ!志月朔良!」
彼女は私を指さして怒鳴り散らす。キャンキャン甲高い声が鼓膜に不快感を与える。噂通り、マリーは頭に白い包帯を巻いていて、ほっぺのところに絆創膏が一枚貼ってある。怪我人らしい滑稽な姿だ。
「写真!写真を消しなさいよ!」
ああ、あれか。私が携帯に収めたマリーの惨めな姿。雨のように注がれた暴力を物語る、あの写真のことだ。
「ああん、もう!朔良っ……消してっ……ああっ、高くて届かない……!」
マリーは力ずくで私から携帯を奪おうとしたが、全くもって無駄だった。マリーは小柄で私は女性の中でも身長が高い方。ざっと見て15cm以上の身長差があるのだ。私がひょいと携帯を持ち上げればマリーは両手を伸ばしても届かない。マリーは地面の上をぴょんぴょん跳ねた。ダニみたいだった。
「朔良ぁ!この、卑怯者!このマリー様に傷を負わせて、しかも脅迫までするなんて!最低!消して!写真を消しなさいよ~!」
何が卑怯者だ。お前こそ母親と共謀してお父様を廃人にしたくせに。もう一度わからせてやらないといけない。また病院送りにするかどうかは別として、とにかく彼女に危害を加えたい。私は軽く彼女を突き飛ばす。
「きゃぅんっ!!」
マリーの体は綿で出来てるみたいに軽い。軽く小突いただけて地面に倒れこんでしまう。
「はぁ、はぁっ!またやったわね!もう許さない!今日という日はあなたを……けちょんけちょんにしてあげるんだから~!」
彼女はまた立ち上がってこっちに向かってくる。私は花壇の方に突き飛ばす。しまった、花に傷がついてしまう。マリーは全身を花壇に突っ込んで、泥と葉っぱだらけになる。
「ぎゃあっ!……この、この、なんでよ、なんでぇっ……」
「マリー。どうして私に一人で立ち向かおうと思ったの?体格差ってわからない?家来に囲まれてなきゃ何にもできないんだよ、あんたは。あ、そっか。マリーのその”小さなおつむ”じゃ、仲間を呼ぶなんて発想、思いつかないよね」
”小さなおつむ”……私は我ながら喋ってる最中に噴き出してしまいそうになる。最大限の侮蔑を込めた表現だ。マリーは顔を真っ赤にしてカンカンになる。
「ふざけないで!またマリーを侮辱した!このっ、この~……ぎゃあああああっ!?」
突然、マリーは叫び声を上げて跳ね飛んだ。
「ひ、ひあっ、イヤ、どけて、気持ち悪い~……」
マリーが何に驚いたのがわかった。カタツムリだった。小さくてヌメヌメしたそれは、マリーの手の甲にちょこんと居座っていた。花壇に突っ込んだ時に付いたのだろう。気持ち悪いだって?信じられない!私はカタツムリをマリーから取って、自分の指先に乗せてじっと見つめる。
「ひどいヤツだね、君は。カタツムリだって必死に生きているのさ。それに……なんとも言えない可愛さがあるじゃない?小さな巻貝を背中の乗せて……ほら?結構、愛嬌があるじゃない?」
「うげ~っ。あ、あんたよくそんなもの素手で触れるわね。バッチイわよ」
バッチイだって?お前に比べれば天と地ほどの差だよ。
――カタツムリに謝りな!
私は指を弾いてカタツムリを飛ばした。マリーは口をぽかんと開けていた。ぬるっとした小生物は……マリーの口の中に入ってしまった。そして、ゴクン――。
「んぐっ!?あ、ぎゃ、おええええええええっ!!!うぐ、ギャアっ!ペッペッ!!!あ、あ、あがぁっ!!」
マリーは四つん這いになって、狂ったような勢いで、地面に唾を吐いている。頑張って吐き出そうとしているらしい。あーあ、バッチイカタツムリさん、食べちゃったね。
「ひぃっ!嘘!あたし、あたし、食べちゃったの!?嘘よ!!嫌だ!あんな雑菌だらけのやつ、食べちゃったら、マリー、病気になっちゃう!!」
ぶるぶると震えるマリー。あんなに可愛い生き物がこんなチビに消化されると思うと可哀想に思えてくる。私はマリーの肩を掴んで正面を向かせる。そして――。
――ドグゥッ!
マリーのお腹を思いっきりグーパンチする。腹の奥に拳がめり込むのがわかる。彼女の顔は死人のように青くなった。
「ぐばぁっ!!あ、あ、お、おえっ、んぐ、あば……げええええええええええええっ!!!」
びちゃびちゃと汚い音を立てて吐き出される吐瀉物。透明、茶色、偶に赤……そんな薄汚い濁流が喉奥から噴出される。流石にマリーの汚物をかき回して確認するつもりはないけど、きっとカタツムリも吐き出したことだろう。
「がぁっ……ひぃっ……んぐ、あはぁ、ふぅ、おえっ……」
今の彼女ったら笑うに値する存在だった。口の周りと透明な液体で濡らして、目は血走っている。背中がガクガク震えて、胸は激しく波打っている。私はマリーの胸倉を掴んだ。そして、ナイフのように鋭く、冷たい声で恫喝する。
「いいかい?聞きなよ、学園の華、マリーさん。あんたもさ、私のお父様にしたことを知っているんでしょう?私があんたを恨んでることも知ってるんでしょう?なのに、たった一人で私の前に出てくるなんて無謀だよ。あんたみたいに能天気な奴には理解できないだろうけどねぇ。私は……あんたが憎いんだよ!殺したいほどに!!」
「ひ、ひぃっ!?殺す……マリー様を……?」
「そうだ!いいか!?私はね、あんたみたいなゴミにうろちょろされると……殺したくなってくるんだよ!マリー!わかったか!?もう私に関わるんじゃないよっ!」
マリーは激しく頷く。
「わかった、わかりましたっ!うぐ、苦しい!手、手を離してよぉっ……」
私はマリーを解放してやる。マリーは糸の切れた人形のように、力無く地面に座り込む。
「写真は消さない!絶対にだ!私があんたに復讐するまでね……」
私は方向転換をして、ゲロまみれの哀れな少女を残して、この場を立ち去ることにした。冷たい秋風が吹いて、花壇の花たちはお互いに身を擦り合って、さわさわという音を立てていた。まだ、憂愁の太陽は高く、沈む気配は無かった……。