更衣室にて
体育の授業が終わって、更衣室で着替えをしていた。程よい疲労感に包まれて、タオルで汗を拭いながら、ロッカーの中の鏡を見つめている。結局、マリーは二週間ほど休学することになった。私が命じた通り、ちゃんと階段から落ちたことになっていて、その傷の療養のために病院で休むということらしい。私は内心ほっとしながらも、まだ果しえぬ復讐に中途半端な気持ちになっていた。あれは衝動的な暴力だった。私はマリーをどうしたいのだろう……どこまで彼女を痛め付ければ満足するのだろう?
「あら?朔良ちゃん。また暗い顔してるわ」
私は鏡に写った顔に気付く。私の背後には――木更津いたちがいた。何かと私に絡んできては、よくわからない冗談を言い残して去って行く、そんな微妙に腹が立つクラスメイト……それが彼女だ。
「別に。いたちは随分と楽しそうだね」
「ふふ。だって、いい気味なんだもん。あなたも知ってるでしょ?光樹眞理衣の大けがの話。最近のあの子ったら、どんどん傲慢になってきてたから、お灸をすえる程度にはちょうどいいのよ」
「そうだね」
私の冷たい返事にいたちは頬を膨らませて抗議する。
「もぉー!朔良ちゃんたら冷たいぞー?あなたの最大の友達であるいたちちゃんに、そんな風に言っていいのかなー。あー、寂しいわぁ。朔良ちゃんはそんな冷酷な子じゃなかったのにー」
「うるさいよ。いたち」
いたちはいつだってこうだ。そうやって私に面倒くさい絡みをする。イライラする私の反応を楽しんでいるのだ。もう乗ってやらない。素っ気なく返してやるのだ。構えばそれだけまとまりついてくる。言ってしまえばタコみたいなもので、振り解こうと頑張るほど、逆に絡まってしまうのだ。
「朔良ちゃん。マリーってね……本当は階段から落ちたんじゃないんだって」
耳元で囁くいたちの声に私は振り向く。目の前にはいたちのとろんとした垂れ目があった。
「あら?どうしたの?ただの噂なんだけど……」
「別に。ただびっくりしただけ」
「へぇー。興味無さそうだったんだけどなぁ。やっぱり気になるんでしょう?だって、朔良ちゃんのお父様の……カタキだものね」
薄茶色の長い髪をかき上げながらいたちは言う。そうだ。お父様のことは、この学園の生徒の中でいたちだけが知っている。こいつにベタベタ絡まれている内に、ついぽろっと零してしまったのだ。
「だってね、事件発生当時、だーれも彼女の姿を階段付近で見なかったらしいの。だからね、きっと真犯人がどこかにいて、話をでっち上げたってことらしいのよ!」
べらべらと唾を飛ばしながら話すいたちの一言一言に、私の心臓は縮み上がる。私はポーカーフェイスのつもりで、普段の仏頂面を崩さないようにしていたが、心の中では猛烈な嵐が吹いていた。マリーに飲ませた嘘がばれている。私自身が特定されたわけじゃないが、階段の事故が事実ではないと知られてしまっている。
「ふふ。朔良ちゃんったらどうしたの?今日は普段と違って可愛さ倍増ね。ねぇ、ほっぺにキスしていい?」
またいたちの突拍子もない冗談。おぞましいことに、いたちは唇を尖らせてキスの準備をしていた。背筋が凍るかと思う。私は彼女の鼻をつまんで思いっきり引っ張ってやった。
「いだだだ~!もお!朔良ちゃん!乙女にそれは無し!反則ですー!」
「いたちが悪い」
いたちは赤くなった鼻を抑えて労わっている。この人のジョークはどうでもいいとして、これからどうしようか。特にマリーが復学してからが問題だ。あいつのことだから、すぐに学園長に事の次第を話してしまうかもしれない。先手を打たなければ私が学園から追放されてしまう。
「ねぇ、朔良ちゃん。何か悩み事があるんだったら私に相談してよね?だって親友じゃない?私たち」
私はワイシャツの袖に腕を通す。ロッカーの中で冷えた布地が、肌に気持ちいい。
「いたち。前にも言ったよね。私、友達は要らないんだ」
「嘘よ。本当は寂しがり屋の癖に」
スカートを履いて襟を正す。皺のついた上着を伸ばし、身だしなみを整える。
「嘘じゃないよ。私は一人でこの学園でやっていくんだ。だから、他の人の事なんてどうでもいい。マリーもいたちも……私には関係ないんだよ」
だいぶ長い時間話していたようで、この狭い部屋には私といたちしか残っておらず、何だか気まずい雰囲気が流れていた。早くロッカールームから出たかった。この女と一緒にいるのが苦痛だった。私はいたちを無視して、部屋を出る準備を整える。
「朔良ちゃん。あなたは絶対に私を必要にするわよ?絶対……」
いたちのか細い呟きを聞き留めるつもりはなかった。私は彼女を残して渡り廊下へ出て行った。