逆転の発想
私は奇妙な境遇の中にいた。錯乱した私はマリーと雨の中でつかみ合いの喧嘩をした。その後、私はマリーの高級車に乗せられて、彼女の家に向かっている最中である。マリーはあの憎き学園長の娘であり、幾度も虐げた相手だ。そんな奴に私は助けられている。
「お嬢様。もうすぐですよ」
「うん。わかってる」
運転手が喋った。初老の男性で、綺麗なスーツに灰色の髭を生やしている。きっと専属ドライバーなのだろう。この辺りは来たことが無いが、周りを確認する限り富裕層の居住区らしい。高層ビルは影を潜め、庭付きの一軒家が静かに、都会の喧騒から隠れるように林立している。真のブルジョワたちが土地を買って、この場を占めているのだ。路地裏のボロ屋に住んでいる私とは雲泥の差である。
「朔良。ここよ」
目の前には、メルヘンチックな超豪華屋敷が広がっていた。西洋風の鉄格子に、豪勢な前庭、立派な石造の泉、そして奥には、西洋風の芸術的なお屋敷がある。お前はヨーロッパ貴族かとツッコミたくなる。光樹家が金持ちなのは知っていたが、まさかここまでとは。富豪の域に達している。
「お、お嬢様っ!?そんなにお召し物を汚されて……どうなされたのですか?」
傘を差した妙齢のメイドが心配そうにしている。
「これは、その……転んだの。そうよ、事故なんだから。はやくお風呂を温めて頂戴?」
「かしこまりました。それと……そちらの方は?」
メイドは私を不審な目で見つめる。マリーは焦りながらも、なんとか言い訳をつくろう。
「この人はね、そのね、えっと、クラスメイトよ!友達なの!転んだ時に巻き込んじゃったの!」
「まあ!?お嬢様のお友達なんて……初めてではありませんか?ふふ。マリー様にもいよいよご友人ができたのですね?」
「あぅ!?こらっ!そういう余計なことは言わなくてもいいの!早く中に通しなさい!」
赤面してムキになる彼女。私は黙ったままでいる。
「かしこまりました。ふふ。ではこちらへ。えっと……」
「志月です。志月朔良」
「ああ。志月様。ご一緒にどうぞ」
私はメイドに連れてられて、お屋敷内に入っていった。
屋内に来た時、私は夢を見ているのかと思った。赤いカーペットに曲線を描く螺旋階段、天空に輝くシャンデリア、廊下の壁に掛けられた絵画や石像たち。どれもこれも日常的な風景ではない。お風呂も広かった。20人は入浴できる大浴場で、浴槽ではライオンの像がお湯を吐いていた。壁には金色の幾何学的な模様が施されており、床は鏡のようにピカピカに磨かれていた。あまりにゴージャスすぎてグロテスクにすら感じられる。私はお風呂で綺麗になると、客人用の着物を渡された。その後、先にお風呂に入っていたマリーがいる客間に通された。あまり広くない小部屋で、革のソファーが二つあり、奥には暖炉がパチパチと音を放ちながら燃えていた。ソファーは暖炉を囲むように設置されている。私はその左側の方に腰を掛けて火に体を当てた。マリーはタオルを頭に被りながら、ソファーの上に体育座りをしていた。無言だった。私も喋らなかった。真っ暗な部屋で炎だけが輝いていた。空は青紫色の雲に一面を覆われていた。
「……制服だけど、たぶんクリーニングしないとダメだと思う。だから、今日は別の服で帰って。ウチのを貸してあげるから」
「うん」
マリーはぼそぼそと喋った。彼女の目線は被ったタオルに遮られて見えなかった。
「あんた……どうしたのよ。雨の中、傘もささずに走り回るなんて……あんたらしくないわ。何かあったの?」
「それは……」
事実は言えない。マリーにお父様の真相について知られたくない。
「なんでもないよ。気分が悪かっただけ」
「嘘よ。朔良はそんな風に取り乱したりなんかしないわ」
「そんなのマリーにわかるわけないだろ」
「わかるもん。あんたは泣くことなんてしない。あんなに大声を上げてね。捨て猫みたいに喚いていたじゃない。尋常じゃないわ。何かあったんでしょ?……あんたのお父さんのことで」
「……っ!?」
図星を突かれた。どうしてだ?どうしてわかった?
「あんた本当にお間抜けね。あんたがどんなにポーカーフェイスを決め込んでたって、マリー様には全部お見通しなのよ。朔良が取り乱す時はいつだって父親絡みじゃないの。私を殴った時だって……」
「そ、それは、その……」
「だから話しなさい。何があったのよ」
再び静けさが支配する。炎が弾けて火花を散らす。炎が暖炉の中で幻想的に揺れる。
「……選挙について調べてた。あんたの母親が学園長になる時の」
「やっぱり盗んだのね。無くなった議事録はその時のだってママが言ってた。えっと……いたちだっけ?あの子は嘘をついてたのね?」
「……」
「もういい。いちいち責めないわよ。それで?それがどうしたの?」
「お父様がどうして選挙に負けたのか書いてあった……。暴力を……起こして……」
学園長の娘であるマリーには絶対に言いたくないことだった。お父様を馬鹿にされるに決まっている。『やっぱりあんたの親父はろくでもない奴だったのよ』って。でも、今日のマリーはいつもと雰囲気が違った。いつもの生意気お嬢様じゃなくて、しっとりと話を聞いてくれる……そんな神妙な期待感があった。私は途切れ途切れに、それでも全部話してしまった。
「そう……。それは……残念ね……」
「馬鹿にしないのかよ!?」
私は立ち上がってタオルを床に叩きつけた。思いが堰を切ったように溢れ出た。
「笑えよマリー!あんたの言う通りだったんだ!お父様は、ろくでもない奴で、暴力事件を起こして選挙も負けた、そんな……卑怯者だったんだよ!私がやってきたことは全部無駄だった!復讐も……私の空絵事に過ぎなかったんだよ……!」
炎が音を立てて踊った。
「もう何もかもわからないんだ!くそっ!お父様が正しかったのか、あんたの母親が正しいのか……全部が全部、もう滅茶苦茶なんだ……」
「朔良……」
復讐は完全に無意味になった。議事録は事実を伝えている。私の父は暴力事件を起こして選挙に敗北し、それを隠すために不正などという嘘をでっちあげた。それを素直に信じてきたのが私というわけだ。後ろの扉が静かに開いた。
「お嬢様。温かいお飲み物をお持ちしました」
「ありがとう。朔良、座りなさいよ……」
ソファーに奥深く腰掛けて、波のように揺れる火を見つめる。ティーカップに入れられた紅茶に少し口をつける。レモンの爽やかな香りが匂った。少しだけ気持ちが落ち着く。
「前も言ったけど……ママは不正選挙なんかしないわよ。絶対」
「……わかってるよ」
「でも……あんたのお父さんはどうなの?」
「え?」
「朔良から見て……あんたの父親は暴力を振るうような人だったの?」
「そんなことない!お父様は優しくて素敵な人なんだ。確かに無口で怖いところはあったけど、でも、絶対に誰かを殴るような人じゃない」
「じゃあ、それでいいじゃないの」
「それでいいって……?」
「自分のお父さんなんでしょ?だったら、娘としての直観を信じなさいよ」
「議事録に書いてあるんだ。どうしようもないよ……」
「あんたがそんなに弱気になるなんて珍しいわね。議事録が何だっていうの?ただの一小冊子じゃない。そんなの無視すればいいのよ」
「どういうこと?」
「……逆に考えてみたら?私のママは不正なんかしない。でも、あんたのお父さんも暴力を振るうわけない。もしそうだったとしたら……どうなるの?」
ここで一つ、頭の中を整理してみる。議事録にはお父様の暴力事件が書かれている。だけど、私はそれを認めない。かといって、マリーの母親が不正を犯したというわけでもない。お父様も学園長も悪くないとしたら、この議事録に書いてある事実はどのように発生したのか?ここから導かれる答えは――。
「……別の人間がいた?」
私は閃いた。今までの全ての前提を覆してしまうような大地震が起こった。そうだ。どうしてこの可能性を考えなかったんだろう。議事録に書いてあることは”表面的な事実”に過ぎない。文面だけ見れば確実にお父様が悪者だ。だけど、それはカッコに入れて、お父様が正しいという前提で考えれば、この絶対的確信から導出される答えは――第三者がいるということだ。お父様を罠に陥れ、学園長を裏で操っている影の人物がいるはずだ。そうすれば全ての辻褄が合う。この第三者がお父様の暴力事件をでっちあげ、マリーの母親が、あたかも事件を告発した正義の味方であるかのように演出する。この人物が隠されているから、お父様か学園長かが悪者に見えるのだ。もちろん、それが誰なのかは全くわからない。ただの仮定の話に過ぎない。だけど、まだ確認していない情報が一つあった。
「……第二討論」
綺麗に破かれていた第二討論だ。あの第二討論で何かあったのではないか?それこそ、その第三者が深く関わっている何かが……。やはり議事録の完全な姿が必要だ。それを見ない限りは終われない。それに、あの廃工場で私に衝撃の事実を突き付けてきた奴……あれは学園長の代理人では無いかもしれない。もしかしたら、学園長に注意を逸らせるために用意された罠なのかもしれない。全ては憶測の域を出ない。だけど、暗雲立ち込める空に、一筋の光が射したかのような……そんな気がした。
それにしても、どうしてマリーは私の味方をするようなことを言ったのだろう?
「……どうして?」
「え?」
「どうして私を助けるようなことを言うのさ。マリーにとって私は……嫌な奴だろう?」
「別に。……この前のボタンのお礼だと思いなさいよ」
マリーはそう言うと、そっぽをプイっと向いてしまった。マリーなりの恩返しなのだろうか?
「それに……ちょっとだけ心配だったの。あの時のあんたは今にも死にそうな顔してた。学園の王子様があんなざまじゃねぇ?いくらマリー様だってビビるわよ」
”王子様”……。私が大っ嫌いなあのニックネーム。
「……違うよ。私は王子様なんかじゃない。周りが勝手に言ってるだけだよ。私はそんなに強くも無ければかっこよくもない。ただの……普通の女の子なのに……」
「ばーか。知ってるわよ。マリー様には何でもお見通しなんだから。それにあんたは泣き虫ね」
「マリー……」
「まったく、朔良のどこが王子様なのよ?全然違うじゃない。誰があんたのことを王子様だなんて呼び始めたのかしらね?この”学園の華”を差し置いて……フン!」
マリーが私のことを王子様じゃないって言ってくれた時……心の中に何か温かいものが芽生えるのがわかった。ローリエ学園で、王子様という呼称を否定したのは彼女が初めてだった。相変わらずのイラつく言い方だけど……マリーに対して今まで感じたことの無い感情が沸き起こっていた。だけど、今の私にはその思いに言葉を与えることができなかった。
結局、私は夜になってから自宅まで車で送ってもらった。制服はクリーニングして家に郵送してくれることになった。あの暖炉の前での会話で明らかになった次なる可能性――第三者の介入の線をしばらくは追うことになるだろう。絶望の霧はすっかり晴れて無くなっていった。新たなる活動のエネルギーが私の四肢に満ち足りているのがわかる。振り出しに戻ったわけだが、諦めずに真相を追及していきたいと思う。私は最後まで自分の直観を信じたい。。志月元彦の娘として……私はとことん足掻くつもりだ。