彷徨う朔良、拾うマリー
その日は大雨だった。窓に水滴が激しく打ち付けていた。分厚い暗雲が立ち込めて、この日を薄暗く彩っていた。私はベッドの上で呆然自失していた。結局、昨日は一睡もできなかった。あの衝撃が私を動揺させていた。あの第三回討論のメモは偽物ではなかった。議事録を引っ張り出して、破れたページと元のページを合わせてみたが、完全に破れ目が符合していた。決して夢ではなかった。いくら現実逃避しようとも、逃れられない事実だった。
「……学校、行かなきゃ」
学校を出る時間から既に15分も過ぎていた。私はパジャマを脱ぎ捨てると、制服の袖に腕を通す。一階に降りたが、食欲が1%もない。胃がムカムカして気持ち悪い。水だけでお腹いっぱいだ。
『暴力事件を……』
昨日の嫌な事が想起された。思わず、シンクに嘔吐しそうになる。お父様はいつも通り窓辺に座っていて、雨風に打たれている窓から外の景色を眺めていた。目は虚ろで、眉間には深い皺が刻まれていた。私はお父様に近寄った。
「お父様。嘘ですよね……」
お父様が答えられないのはわかっている。無駄だとしても、でも……。
「暴力を振るったなんて……嘘ですよね。ねぇ、お父様……?」
お父様は人形のように椅子に深く腰掛けて動かない。唇は堅く閉ざされていた。
「お父様ぁ!どうして何も言わないんですか!何か言ってくださいよ!お父様ったら!」
私はお父様の肩を何度も揺すった。でも、お父様の白髪混じりの頭髪が揺れただけだった。安楽椅子が軋んだ音を立てる。私の目には涙が溜まっていて、魂の抜けたお父様の顔がぐにゃぐにゃに歪んでいる。私は……お父様を責めているのだろうか。いや違う。虚しさに打ちひしがれているのだ。私は袖で涙を拭うと、傘を片手に強雨の中に飛び込んでいった。『いってきます』の挨拶はできなかった。
ローリエ学園に着いた。下駄箱までの通路は大きな水たまりが何個もできていて、靴を濡らさずに歩くために蛇行するしかなかった。傘のせいで周りのみんなの顔が見えない。ただ、口元か顎先が見えるだけだった。一年生も二年生も三年生も、近くにいるのに遠くにいるようだ。世界そのものが顔を失っている。人の温かみは、全て冷たい雨に吸い取られてしまうかのようだった。私は逃避するが如く、マフラーの中に顔を隠す。
「あ。志月さん。ごきげんよう」
何も聞こえない。鈍い音がかすかに鼓膜を打ったような感覚があった。
「あの、志月さん?聞いてる?」
彼女の声は激しい雨の音にシャットアウトされていた。聞こえない。私は何も聞きたくない。
「……志月さん!」
「えっ」
私はようやく気付いた。怪訝そうな顔でこちらを見つめる間宮さんがいた。まるで薄気味悪い生き物を見ているかのような、好奇心と嫌悪感が融合した冷たい瞳をしていた。
「どうしたの?気分悪い?」
「ううん。ごめん。ごきげんよう……」
それ以上は話す気力が無かった。私は校舎の中に入って、教室のドアを開ける。まるで夢遊病者のように、無意識のうちに自分の席に座っていた。強烈な違和感が絶え間なく私を苛んだ。みんなに”顔”がない。みんな仮面を被っていて、感情的なものは全て分厚い皮膚の裏に隠されていた。私は周りの景色が歪んでいるのがわかった。目眩に襲われて机上に突っ伏してしまう。目が痛い……。
「……さん!」
「……」
「志月さん!」
「……」
「志月朔良さん!」
私はびっくりして勢いよく立ち上がった。椅子は後ろに弾け飛び、後ろの子の机にガツンとぶつかった。先生は幽霊でも見たような、青ざめた顔をしていた。
「……保健室に行って休んでなさい」
「すみません……」
私はふらつきながら教室を出る。扉の向こうからは、クスクスという笑い声で話し声が聞こえていた。
「うっわー。今日の王子様はどうしたんだろ?」
「なんか朝から様子おかしいよねー?」
「あれじゃない?ほら、あの子ったら……」
「ちょ!やめなさいよ。王子様はそんな人じゃないわ。調子が悪いだけよ」
そんな小言が廊下を歩く私の周りをついて回った。私は耳を塞いでノイズをかき消し、保健室のベッドに倒れ込んだ。ぐるぐると天井が回っていた。熱も少しあるようだ……。
放課後になった。私は多少は気分が良くなったので、担任に一言言って帰ることにした。雨はまだ降り続いている。そうだ、帰るのだ。休んでまた明日には学校に来るのだ。でも、何のために?お父様の無念を晴らすために?暴力を振るい、自ら精神を病んだ父のために?そんな目的に何の意味がある?普通の女子高生としての生活を犠牲にしてまで求めていたものが、こんな無念に終わるのか?私はこれからどうやって生きていけばいい?
「いたち」
「朔良ちゃん」
食堂前でいたちとすれ違った。私は友人に会えた喜びを噛みしめる間もなく、彼女に質問をした。
「……私、どうしたらいいんだろう」
「どういう意味?」
「いたちも聞いたでしょ?不正選挙なんて……最初から無かった。全部、お父様が自分から引き起こしたことだった。でも、私はそのためにこれまでの人生の全てを懸けてきたんだ。それなのに、それなのに……」
「朔良ちゃん」
いたちは今にも泣き出しそうな私をなだめて、近くのベンチに座らせた。彼女は私に諭すように言った。
「……はっきり言うわね。友人として」
「うん」
「現実を受け入れるしかないと思うわ……。だってね、これ以上いったい何があるっていうの?朔良ちゃんが今まで考えてきたことは間違いだった。学園長は悪者じゃなくて、ただ普通に選挙に勝っただけなのよ。残念だけど、事実を認めて――」
私は感情的に反発した。
「でも!でも!お父様は言ってたんだ!不正があったって!それが全てなんだ!うぅ、違う、違うんだよ……」
「気持ちはわかるけど!でも、あなただって議事録を見たでしょう?あそこに書いてあることが全てなの!第三回討論であなたのお父さんの暴力事件が発覚した。そのスキャンダルのせいで精神を病んでしまって、”不正選挙”という都合のいい話をでっちあげたのよ!」
「嫌だ!!!嫌だ嫌だ嫌だ!お父様は悪者じゃない!私のお父さんは、うぅ、そんな暴力を振るうような人じゃない……!知ってるんだ!昔からずっとお父様は優しくて、私を公園にいつも連れて行ってくれて、それで、お母さんがいない分、いっぱい私を可愛がってくれて、それで……!」
私は絶叫した。廊下に声が反響した。周りの人たちは冷たい視線をこちらに送っていた。何よりも、いたちがそうだった。彼女の態度は氷のように冷たかった。
「……朔良ちゃん。残念よ、本当に残念。でも、現実を受け入れなきゃ」
「ああ、ああ、あ、あ……うわあああああああああ~~~~!!!」
私はその場から弾けるように飛び出していった。上履きのまま、傘もささずに外に出た。ツララのような雨が私の頬をぴしぴしと打った。雨中に涙を混ぜながら、私は走り続ける。もう何もかもわからなかった。私は足を止めたら死んでしまうかのように、肺がはちきれんばかりに痛んでも、走りを止めることができなかった。私には何も残されていなかった。復讐も友人もお父様も、みんな私の手から滑り落ちてしまった。私は一人、孤独な王子様……。道路、車、ガードレール、ビル、信号……それらの記号が現れては消えていった。ここはどこだろうか?私は土手に来ているようだった。右手には、雨水を吸収して一層激しくなった川がウンウンと音を立てて流れていた。私の足はいよいよ疲れてきて、その場で止まってしまった。中腰になって息を激しくした。制服は雨水でびしょびしょになり、靴の中まで泥で汚れていた。私はどうしたらいい?どうしたら……。
「あんた一体そこで何やってんのよ」
私は顔を上げた。マリーだった。彼女は傘の下で、こちらを警戒していた。
「こんな強い雨の中を傘もささないで走るなんて……いよいよ気が狂ったの?それに、何よその情けない顔は。ぷくく。朔良ったらびしょ濡れじゃないの。笑えるわよ」
「マリー……」
私は光樹眞理衣の顔を見た。今日、私が見た一番最初の”顔”だった。
「マリーーー!!」
「きゃあああっ!何すんのよ!!やめて!離しなさい!!」
私は知らず知らずのうちにマリーに掴みかかっていた。マリーの傘が宙を舞った。私たちは土手の上でつかみ合いの喧嘩になった。あっけなくバランスを崩して、私たちは土手の坂を転がり落ちていった。私とマリーは抱き合いながら、車輪のように坂を走る。私も彼女も泥と草だらけだった。
「全部あんたのせいだ!あんたら親子が壊したんだ!私も!お父様も!」
「くぅ……!知らないって言ってんじゃないの!このマリー様に向かって失礼なこと言うんじゃないわよ!このっ、このぉおおっ!!」
私の精神状態はぎりぎりまで虚弱していた。普段だったら簡単に反撃できるのに、体中が痺れて本来の力を失っていた。マリーは私を跳ね飛ばし、馬乗りになるとペチペチと頬を叩いた。
「志月朔良ぁっ!今までよくも痛めつけてくれたわね!やり返してやる!この!このぉ!」
マリーの平手打ちなど蚊に刺されるよりも痛くなかった。だけど、やり返す気力も無い。何とかマリーを退けると、天を仰いで私は泣き出してしまった。
「うわああああんっ!!わあああああああああ!」
おもちゃを取られた園児のように、わんわんと顔を覆って号泣する。マリーはあっけに取られながらも、私に非難の言葉を向けた。
「……あんたねぇ!何が王子様よ!あんたなんかただの泣き虫じゃないの!赤ん坊みたいに泣きじゃくって!全然かっこよくなんかないわ!この、この……バカ朔良ああっ!!」
――ドン!
マリーは私を突き飛ばした。私は簡単に張り倒されて、背後の水溜まりの中に飛び込んだ。私は濁った水の中で、死んだ魚のように浮かんでいた。マリーは私の異常さに気づいて、ゆっくりとそばに駆け寄って来た。
「今日のあんた……おかしいわよ。どうかしたの?」
「……」
もうどうでもいい。このまま泥水の中で死んでしまいたい。そんな妄念が私を満たしていた。無様ではないか。ずっと追い求めていた復讐はただのハリボテ、挙句の果てに身も心も泥だらけになって野垂れ死にしようとしている。お似合いだ。私なんかにはお似合いだ……。
「風邪ひくわよ」
「……放っておいて」
「馬鹿なの?なによ、自暴自棄になっちゃって……。ほら、立ちなさいって……!」
マリーは私の手を引っ張って体を起こす。彼女の手も土で汚れていたが、細くて華麗な指だった。
「あーもう!どろんこ遊びした幼稚園生じゃないのよ?みっともないったらありゃしない!はあ。携帯は無事かしら?」
彼女はポケットから携帯を取り出すと、電源がつくことを確認して電話をかけ始めた。
「……もしもし?マリーだけど。急いで車をよこしてちょうだい?タオルも持ってきて。場所は、えっと……ほら、土手よ。家の近くの。わかった?急いで来なさい」
家の人を呼んだようだ。
「それと、タオルは二枚よ?もう一人いるの。どうしてって……そんなの後で説明するわよ!ほら!つべこべ言わないですぐに車を出すの!わかった?」
え?もう一人って……私のこと?
「はぁ。ここで少し待ってなさい。傘持ってくるから。ああもう!あんな遠くまで飛んじゃってる」
「ま、待ってよ。私をどうするつもり……」
「まだわかんないの?あんた相当イカれてるわね。このまま放っておけるわけないでしょ?ウチに来なさい。シャワーぐらいは貸してあげるわよ」
とんでもないことになった。私は光樹眞理衣の家に招待されてしまったのだ。あの……学園長の娘に。血が出るまで殴り倒したお嬢様に。
「……嘘だ」
私は口の中のドロをぺっと吐き出した。雨水で垂れ下がった前髪の毛先から、雫がぽたぽたと胸元に落ちていた。