明かされる真実
廃工場は街の南端にある。20年ほど前に不況の煽りを受けて事業が破綻し、そのまま廃墟化しているという。海をバックにして、おどろおどろしい鉄とコンクリートの塊は、グロテスクな姿態を見せつけている。その圧倒的なスケールに縮み上がってしまいそうだ。林立する太い煙突、生気の無い鉄の巨人、そして、それらを繋ぐ血管のような無数のパイプたち……ここは都会のジャングルだ。私はウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込みながら、いたちを待っていた。今は夜の8時50分。こんな不気味な場所に一人でいるのはさすがに怖い。お化け屋敷は全く怖くなかったのに、不思議なものだ。
「朔良ちゃん。ごめんね」
案の定、いたちは遅刻した。時間を守ったためしがない。まあ別に許すけれども。彼女は茶色のフロックコートを身にまとっていた。足元を通り過ぎていく夜風が私たちを凍えさせる。吐く息は湯気のように白い。
「いたち。覚悟はいい?」
「もちろん!だって王子様が傍にいてくれるからね」
私はいたちの頬をつねった。
「ぎゃぅん!?もぉ!何もつねんなくたっていいじゃないの~!」
「王子様は禁句なの!ほら、行くよ?」
黄色の”進入禁止”のロープを跨いで廃工場の中に入って行く。薄紫色の月が不気味に笑っていた。何か……不吉なものを感じた。
廃工場の中は物静かで、全てが死んでしまったようだ。埃っぽくて酸っぱい臭いがぷんぷんする。そこらじゅうが腐敗しているのだろう。ネズミでも出てきそうだ。懐中電灯の明かりを頼りに真っすぐ進んでいく。トタンの壁に挟まれた、人一人しか通れない狭い道である。
「ねえ。こっちの方角であってるの?」
「うん。ほら、これ見てよ」
私はいたちに地図を渡した。私は工場に着いた時に一通の封筒を拾っていた。中には工場の地図が入っていて、待ち合わせ場所に赤い星マークが印字されていた。進行方向も丁寧に図示してある。
「ふぅ。やだわねぇ。何か幽霊でも出そうって感じ」
「学園長よりそっちの方がマシだよ。ったく、今夜はどうなることか」
「朔良ちゃんと一緒なら私は大丈夫だと思うけどなぁ?」
「私は不安だね。いたちと一緒だと」
「もぉ!そうやってすぐにおちょくるんだから!」
いたちの声が空間に響いた。道は途切れて、第一作業場に入る。ベルトコンベアーが等間隔に並んでおり、天井は一部ガラス張りになっているトタン屋根で構成されていた。なんとも物悲しい場所である。ここは現代の廃墟だ。
「何か明るいわね」
「天井のガラスから月明かりが入ってきてるのさ。足元に気を付けなよ?釘とか踏んだら大変だから」
「りょーかい♪」
私たちは身を屈めてたり跨いだりして、ベルトコンベアーを通り抜けた。今度は外だ。建物と建物を繋ぐ通路で、おそらく昔はフォークリフトなど作業車が忙しく走っていたのだろう。床に目を転じると、かすれた文字が見える。『注意』……って書いてあるのかな。
「もうすぐ目的地かしら?」
「うん。ここから左に行って突き当りを右。その先の荷物置き場がゴールだよ」
心臓は狂ったようなビートを刻んでいる。不安と緊張が一層高まって来る。この奥に学園長がいる。私は上手く乗り切れるだろうか。交渉は不発に終わり、全てが終わるのだろうか。あらゆる懸念が現れては消えていった。私たちの運命は深淵の中に沈みつつある。お父様の優しい顔だけが、唯一の励ましだった……。
荷物置き場は4つの柱だけで構成された、壁無しの空間だった。荷物を載せた車がスムーズに入るためには、その方が都合がいいのだろう。木箱や段ボールが積んであったり、潰れて床に転がっていたりする。人の気配は感じられない。時計を見ると既に9時20分。待ち合わせの時間はとうに過ぎていた。
「あっ!朔良ちゃん!」
いたちは何かに気づいたようだ。私たちのいる所から反対側に、木箱が2メートルぐらいの高さで積まれていた。木箱は列をなし壁のようにそり立っている。その奥が微かに光っていた。誰かが明かりを灯しているに違いない。
「学園長だな!そこにいるんだね!」
私の呼び声に反応は無かった。もう一度同じことを言おうと思った瞬間、低い唸り声のようなボイスが聞こえてきた。
「……志月朔良と木更津いたちだな」
ひどく音質の悪い声だった。ボイスチェンジャーを使っているのか?
「私は学園長ではない。その使いの者だ。今日は学園長の命を受けてここにやってきた」
「……代理人ってことか」
「うう。そりゃ、本人がわざわざ来るわけないわよね」
いたちは私の背後に隠れていた。代理人は威嚇するような声色で話を続ける。
「そこから一歩も動くな。あの手紙の通り、すべてをばらしてしまうぞ」
私は彼の言うことに従った。本当は今すぐにでも突っ込んでいきたいけど。
「さあ、議事録を差し出せ。左に赤い木箱があるだろう?そこに議事録を入れるのだ。そうしたら速やかに立ち去れ」
近くに赤い木箱があった。ここに議事録を入れていけだって?
「……それはできない。あれは私たちが危険を冒してまで手に入れた証拠なんだ。あんたが都合の悪い部分を破ってあるとしてもね」
私は挑発するように言った。だが、代理人は何も答えなかった。ならば”あれ”を使うまで。
「代理人さん。学園長に伝えてくれないかな。私は取引するためにここに来た。あんたと私は対等の立場なんだよ」
私は緊張のために馬鹿になった指で、なんとか携帯を取り出すし、例の写真を突き付ける。
「……わかるか?これは学園長の娘の……光樹眞理衣の写真だ!血だらけで情けないだろう?もし私の言うことを聞かなかったらこいつを学園中にばらしてやる!そうしたら、こいつはもう学園にいられなくなる!それでもいいのか?」
良心というガラス細工が、音を立てて崩れていくのがわかった。私の心は鉄の輪によってきつく締めあげられていた。
「だから、私たちが学園長室に忍び込んだことは秘密にしろ!どうなっても知らないぞ!お前の娘が学園中の笑いの種になるかもしれないんだ。ちゃんと考えて決めろよ。大事な娘のことだからね」
「……」
代理人はしばらく沈黙していた。木箱越しの明かりは、まるで蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。
「何か……言えよ」
「志月朔良。お前は本当に可哀そうなやつだ」
「はぁ!?」
「これはお前のためを思っての提案なのだ。手紙の内容を忘れたのか?」
手紙の内容だって?それがどうしたって言うんだ?
「……復讐は無駄だとか全てを知ることになるとか書いてあったな。あんなのただの脅し文句じゃないか」
「もうやめるのだ。これ以上深入りしたらお前は心底傷つくことになる。これはお前のためを思っての提案なのだ。気の毒なお前がもうこれ以上苦しまないための……」
その時、学園長の言葉が蘇った。
『あなたのお父さんのことだけど……気の毒ね』
私の中で何かがブチッと切れた。私は絶叫する。
「黙れ!なんだよ!?お父様を潰しておいて!なんなんだよその態度は!私はお前なんかに気を遣われる筋合いはないんだ!」
「ちょ!?朔良ちゃん落ち着いて!」
「いたちは黙っててっ!!!」
憤怒が私の身体中に駆け巡った。最も憎むべき敵から憐れみを受ける……最大級の屈辱だった。
「これは私の意志だ!私は絶対に真実を知る!そして学園長に復讐する!あの馬鹿なマリーもだ!みんな……ぶっ潰してやる!」
「真実を知りたいのか?」
「さっきから何言ってるんだ。はぐらかすような言い方で……」
代理人は少し静かになった後で、今度は優しく諭すように話し始めた。
「右側の青い木箱を見ろ。その中に真実が入っている。お前にその覚悟があるなら箱を開けて中身を見るがいい」
青い木箱だって――?私は奴の言うとおりに、箱に慎重に近づき蓋を開けた。中に茶封筒が入っていた。
「……中身を見るがいい」
「嘘……。これは……」
驚愕せざるを得なかった。だって……。
「……第三討論」
破かれていたページだった。焦げた古い紙で、斜めに破かれている。
「朔良ちゃん。なんて書いてあるの?」
「えっと……」
私は何か嫌な予感に満たされながらも、そっと視線を紙上に落とした。私は……破滅へと向かっていたのだ。
「……このように激しい討論が交わされた。学園内の規律がテーマだったが、志月氏はある程度は厳しい態度が必要という立場であり、光樹氏はもっと生徒に近づいた柔軟な対応を求めていた。志月氏の雄弁は相当なもので、投票権を持つ他の教員たちは志月氏が話し終えると喝采を送った。だが、光樹氏はとある”証拠”を突き付けた」
私は口の中が乾いていくのがわかった。血の気が引いていく。
「……それは”志月氏による生徒への暴力”を告発する意見書だった。写真も提示された。頭から血を流した女子生徒が写ったものだった。議論は一気に紛糾した。志月氏は頑迷にこの事実を否定した。だが、光樹氏とその助手が連れてきた女子生徒は証人として全てを暴露した。『志月先生は日常的に暴力を振るっています。規律と言ってはいますが、ただの暴力なんです。これは真実です。紛れもない真実なんです』。光樹氏は言った。『ほらごらんなさい!厳しい規律は生徒を壊すのです!私はこのような悪行を働く人間を、学園を導く長にするわけには絶対にいきません』。以上でもって第三回討論は決着が着き……」
私は膝から崩れ落ちた。身体から魂が抜けていくのが分かった。目の焦点が合っていなかった。
「……わかったか?これが真実だ。はっきり言おう。不正選挙など存在しなかったのだ。全てが志月元彦の妄想に過ぎないのだ。復讐は無駄だったのだ」
「あ、あ、あ……」
「この真実が明らかになる前に、お前は議事録を返却すべきだったのだ。そして復讐をやめるべきだったのだ。だが、お前は全てを知ってしまった。知ってしまった。知ってしまった」
代理人は壊れた機械のように、何度も同じフレーズを繰り返した。その言葉は私の中で反響し、深く染み入った。
「お父様が……暴力事件?それで選挙に負けた?不正なんて無かった……?」
「そうだ。お前の父親の精神が崩壊したのは、不正選挙に負けたからではない。自らの暴力事件が表に出て面目を失ったからだ。自業自得なのだ」
「う……わ……」
私は大粒の涙を流して泣いていた。私はダンゴムシみたいに丸くなって、歯を打ち鳴らすほどに震えていた。この世界の安定が壊れてしまったかのようだ。
「朔良ちゃん!しっかりして!朔良ちゃん!」
いたちが駆け寄ってきて私の体を揺すった。だが、私は糸の切れたマリオネットのように、動けなくなってしまった。大切な何かがプツンと切れてしまった。手足は死人のようにぶらんと垂れ下がっていた。
「志月朔良。お前は本当に可哀そうなやつだ。可哀そうな、可哀そうな……」
また、代理人はロボットのように言葉を繰り返した。私はいたちの腕の中で、朦朧とした意識で外を見た。青白い海が波をうねらせていた。不吉な紫色の月が、髑髏のような不気味さで波面に映っていた。私はその月光の中に吸い込まれていった。