叔父が来る
今日は休日。普段なら散歩やショッピングをして、まったり過ごすことにしているのだが、今日は違う。あの人がやってくる。私は落ち着かなくて、部屋の中を行ったり来たりしている。じっとしていられない。指先がなんだか痺れている感じがする。私は何度も時計を確認する。もうすぐ来るはずだ、あと少しで――。
「……はい!」
呼び出しのベルが鳴る。ドアノブに手を掛けた瞬間、少しだけ躊躇した。でも、諦めてそのまま開けた。
「朔良ちゃーん!久しぶり!元気してた?」
「連太郎さん」
「ふふ。ハグだよ、ハグ。ほら、ぎゅぅ~~~~」
私を力強く抱いた中年の男性――志月連太郎は私にとっての叔父、つまりお父様の弟なのだ。彼は灰色のコートに身を包んでいた。彫の深い端正な顔立ちにぱっちりとした目、常にニコニコしている口元、頑健そうな日に焼けた肌、ビジネスマンらしいさっぱりとした髪形。世間一般からすれば、なかなかハンサムだと見なされるだろう。ついでに、まだ独身だ。
「入ってください。寒いでしょ?」
「寒さなんてへっちゃらさ!なんといっても、可愛い姪っ子に会えるんだもの~!テンション上がっちゃうよ!」
「……そうですか」
私はこの叔父のことが嫌いだ。おちゃらけた性格と高いテンションがものすごく鼻につく。私の嫌いなタイプの人間である。
「んじゃ、失礼するぜ~?お、兄貴!」
室内に入るなり、叔父はお父様のそばに駆け寄る。
「兄貴も元気してたかぁ?って、わかんねぇよなぁ!だって、精神が死んじまってるもの!あはは!目の前で手を振っても全然気づきゃしねぇよ!ほら、生きてるか~?」
お父様に対する侮辱的な対応に、はらわたが煮えくり返りそうだった。お父様を愚弄するな!
「兄貴の奴、すっかりデクノボーだな。朔良ちゃんも大変でしょ?ずっと一人で世話しなきゃならないなんてさ」
「別に……。家族ですから」
「偉いね。兄貴も誇りだろうぜ?自分の娘がこんなに父親思いだなんてさ。ほら、兄貴も俺と一緒に感謝の挨拶しなよ。ありがとさんってねぇ。ふははっ!」
もし”あの事情”が無ければ、今すぐにでも脳天を叩き割るところだ。だが、ここは臥薪嘗胆。私は叔父に借りがある。どうしようもない借りが……。
「っとぉ、まずはカネだな。待ってろ……あったあった。ほら朔良ちゃん。学費、たっぷりあるからよ」
「ありがとうございます。叔父様」
私は連太郎さんから分厚い茶封筒を受け取った。中には札束が詰まっている。ローリエ学園は私立の女学校。当然、学費はとても高い。母親は既に病死して、お父様も働けるような状況ではないから、どうしても親類の援助が必要になってしまう。そこで、叔父が学費の一部を負担してくれているという訳なのだ。正直に言えば、こんな人間の顔なんて二度と見たくない。でも、しょうがないのだ。とてもじゃないがバイトで賄えるような金額じゃない。叔父のサポートに頼るしかない。
「私が大人になったらちゃんと返しますから。だから待っててください」
「ノンノン~~!気にしてないって!結婚してねぇ独身男にはさ、金が馬鹿みたいに余ってんのよ。それを大切な姪っ子のために使えるなら、俺の財布が涙流して喜んでらぁ!ふははっ!」
叔父は唾をそこら中にまき散らしながら冗談を言った。はあ、うんざりする。
「学校はどうよ?友達はできたかい?勉強は?進路はもう決めた?」
「順調ですよ。私なりに上手くやってます。勉強だって……この前の試験で学年トップになりました」
「おおっ!すげぇじゃん!さすが兄貴の子供だな!兄貴みたいに真面目で秀才ときてやがる!くっはー!羨ましいねぇ!俺なんて学生の時は女のケツばっかり追いかけまして……おっと、失礼。レディを前に失言しちまったよ。ふふっ!」
歯をむき出していやらしく笑う叔父。不愉快だ。さっさと消えてしまえ。苦痛な時間ほど長く感じるものだ。まだ5分しか経っていない。
「……まあ、冗談はともかくだ。困った時は俺を頼りにしてくれよ?兄貴の財産だって限りがあるんだ。何をするにしてもカネは必要だからな」
「お心遣いありがとうございます。叔父様」
「ひひ。その”叔父様”っていう響き、サイコーだね。なに?ローリエ学園ではそういう風に年上を呼ぶようにしてんの?」
「ええ。由緒ある学校ですから。言葉遣いは厳しく躾されています」
あくまで外面的には……だが。友達と話す時は当然タメ語だ。汚い言葉だって使う。
「おっと、お時間を無駄にしてはいけませんね。そろそろお帰りになった方がよろしいのでは?」
「何言ってんだよぉ~!今日は休日だぜ?俺と楽しい時間を過ごしたいんじゃねぇか?なんてな!まあ、俺みたいなむさ苦しい奴はさっさと退散するさ!」
叔父はそう言うと帰りの身支度を始めた。私はほっとする。今日はすぐに帰ってくれそうだ。ひどい時は、夕方になっても居座り続けることがあった。
「……とその前に。ねえ朔良ちゃん。近くに公園あるっしょ?俺と一緒に散歩してくんない?」
「え?」
「別にいいだろ。別れ際の”ちょっとしたお散歩”さ。な?今日は天気もいいし」
私は一秒の散歩でもごめん被りたいところなのだが、どうしようもないか。ここで断れば、むしろしつこくされる可能性もあるし。私はいたちからもらったマフラーを首に巻き、コートを着て外に出た。
私と連太郎さんは二人並んで歩いてく。世間の人からどういう風に見えるだろうか?仲のいい親子だろうか。いや、そうは見えないだろう。なんといっても私がいかにも不愉快そうな顔をしているから、仲睦まじいとは言えまい。私たちは近所の公園にやってきた。中心に遊具や遊び場があり、それを取り囲むように遊歩道がある。少し時間を外していたためか、休日にも関わらず公園には誰もいない。よく犬の散歩をしている老人が一人や二人、いるものなのだが。私たちは遊歩道に入り、ゆっくりと歩いていく。背の高い樹が道に沿って等間隔に並んでいる。落ち葉が空中を舞い、池に落ちて微かに水面を揺らす。その間も叔父はマシンガントークを続けていたが、私は相槌を打つだけで真面目に聞いていなかった。
「ここら辺でいいかな」
「叔父様?」
「ねえ朔良ちゃん。あの件のことなんだけど……考え直してくれたかな?」
私は叔父の声のトーンの急な変わりようにドキッとする。ハキハキした明るい声色から、真剣さの増した低い声に変貌する。彼の視線が真っすぐ私に注がれていた。
「あの件ですか?」
「そう。忘れちゃった?……俺と一緒に住むって話さ」
叔父はかねてから私にある一つの要求をしていた。それは、この街を離れて叔父と一緒に暮らすこと。彼は私と一緒に住みたがっていた。そっちの方が色々と便利だからというのが彼の理由だったが、その裏には”いやらしい目的”があった。
「前にも言いましたけど、できません。私にはお父様がいますから」
「安心しなって。兄貴は施設に入れればいいんだよ。別に朔良ちゃんが面倒みる必要はないんだ。費用は全然心配しなくてもいいんだぜ?何万だって払ってやるよ」
「悪いですよ……」
「気にすんなよ。朔良ちゃんは高校生になってもまだ子供だ。ちゃんとした大人のサポートが必要なんだよ。な?どうだい?俺と一緒に暮らしてくれないかい?」
叔父はじわりじわりと私に近づいてくる。それに合わせて私は後ろに下がる。周りを見回しても誰もいない。ただ鳥の囀る声が遠くから聞こえてくるだけだ。信じたくないけど……叔父は姪である私のことが好きなのだ。正々堂々と告白されたわけではないが、言動が全てを物語っている。時折、彼は私の顔や胸やお尻をいやらしい目つきで盗み見していることがある。連太郎さんは私に欲情を抱いている……。
「朔良ちゃん。ボーイフレンドはできたかい?」
「いえ。ローリエ学園は女学院なので」
背中に障害物がぶつかるのが分かった。木の幹だった。これ以上後ろに下がることはできない。叔父は鼻息を荒くしながら、こちらに接近してくる。
「もったいないねぇ。こんなに可愛いのに……」
「いえ、あの……きゃぁあああっ!?」
叔父は私の手を握ると、そのまま体を前に突き出して、私の首の辺りに鼻頭を押し付けた。猪みたいな息の荒さで、必死に嗅いでいる。私は不快感と恐怖感で息が止まりそうになる。
「んふふ~?香水使ってるな。バラか?いや、もっと爽やかなやつか……クンクン」
「お、叔父様……っ」
「イケナイ子だよ。まだガキのくせに色目使っちゃってさ。クンクン。ふふっ。可愛いねぇ、朔良ちゃん。君は本当に可愛いよ。叔父さんが知ってる女の子の中で間違いなくナンバーワンの美人さ。やっぱり君は俺と一緒に暮らした方がいいよ。世の中には君みたいな美人を狙う悪い輩がたくさんいるからねぇ。安心しろよ、俺が守ってやる」
「い、いいですから。結構です」
「そんなこと言うなよ。金を払ってるのは俺なんだ。”叔父様”には礼儀良くしなきゃダメだぜ?ほら、認めてくれよ。俺と一緒に暮らすって……同じ屋根の下でな」
「……やめてください」
私はまるで鳥籠の中の鳥だった。煮るも焼くも飼い主の思い通りで、逃れられない。薄汚い根性を持った変態男に、私は逆らうことができない。ただ震えながら耐えることしかできないのだ……。私は心の中で呟いた――。
『誰か……助けて……』
その時だった。
「ピィイイイイイーーーーーーー!!!!!」
突然、公園内をつんざくような甲高い音が響いた。驚いた鳥たちが一斉に飛び去り、公園全体がざわめいているようだった。私と叔父は硬直した。一体何の音だ?
「な、なんだ?」
叔父は周囲をきょろきょろと見回した。左の方から誰かがやってくる。あれは……。
「ぶぶーっ!レッドカード!変態おやじ発見でぇーす!朔良ちゃんから今すぐ離れてくださぁーい!」
いたちだった。ホイッスルを首にぶら下げている。さっきの音はこれか。にしても、どうして?どうしていたちがここに?
「はあぁっ!?お前誰だよ!」
「朔良ちゃんの友達のいたちちゃんでーす!ほら!早くどっかに行ってよ!変態!ロリコン!人間のゴミ!」
いたちは叔父を追い払おうとする。
「ば、ばっきゃろ!邪魔すんじゃねぇよ!てか、俺は変態でもロリコンでもねぇよ!誤解されるだろ!」
「まだ認めないんですかぁ?じゃあ応援を招集しまーす!すぅ……」
いたちは大きく息を吸い込んで、胸を膨らませた。そして叫んだ。
「みなさーーーーん!!!助けてくださーーーーーい!!!レイプ魔に襲われそうでーーーす!!早く来てぇえええーーーーーー!!!!!!」
彼女の声は公園内に強く響いた。大声につられた人たちがぞろぞろとやってきた。
「なんだ?」
「犯罪か?」
「おい!何してる!」
「その女の子から離れろ」
叔父の敗北は決定的だった。彼はひどく狼狽えて、無様な様子で逃げ出した。
「だ、だからぁ!俺は悪いことしてねぇって!ああもう!仕方ねぇ!朔良ちゃん!この話はまたいつかしような!じゃあ!」
連太郎さんは猫に追いかけられるネズミのように、情けない背中を見せて退散したのだった。私は……助かったのか?
公園のベンチに座りながら、私たちはアイスクリームを舐めていた。甘くておいしい。
「……危なかったわねぇ。朔良ちゃん」
「いろいろと聞きたいことがあるんだけど、まず第一に、どうして私がここにいるってわかったの?」
「まあ偶然ね♪適当に散歩してたらぁ、朔良ちゃんが見知らぬ男の人と一緒に公園に入るのが見えたから、こりゃあ怪しいぞって思ったの」
ただのラッキーかよ。まあ、そりゃそうだ。
「その笛は何さ?」
「あら?知らない?入学当初にもらったじゃない。もし不審者に襲われそうになったらこれを吹きなさいって」
ああ、そっか。そんなのもらったっけ。ウチのどこかで埃を被って寝ているだろう。帰ったら探そう。
「っていうか、私の方こそ聞きたいことだらけよぉ。誰なのあの人?犯罪者?異常性欲者?」
「誠に情けないことに……私の叔父なんだよ。お父様の弟なんだ」
それから私は叔父との関係について話した。金銭的援助を受けていること、私と一緒に住みたがっていること、私に対して異常な欲情を抱いていること。
「……サイテーね。いくらお金を払ってるからって、朔良ちゃんに好き放題していいわけないじゃない」
「そう言いたいところなんだけど……なかなか言えなくて」
「朔良ちゃんったらそういうところがダメなのよっ!イヤなことははっきりイヤって言わなきゃ!ああいうタイプは甘やかすとどんどんつけあがるんだからね!」
いたちの言うとおりだ。私は叔父に対してあまりにも無防備だったのかもしれない。時には厳しく突き放すことも必要だ。
「……ありがとう、いたち。正直言って、あのまま襲われるのかと思った。怖かったよ」
「んふふ。私が友達で良かったでしょ?」
「……うん。ありがと」
私は生まれて初めて友達のありがたさというものを感じたのかもしれない。私は今まで孤独だった。独りぼっちなら、あの状況はどうにもならなかったかもしれない。友達がいてよかった。私は胸の奥で形容できない暖かさを感じた。
「やっぱり朔良ちゃんは可愛いわね。んん……」
「へ?」
――いたちは私のほっぺにキスをした。
「んがぁっ!?馬鹿っ!何しやがる!?」
「いやーん♪いよいよ朔良ちゃんにキスしちゃった~♪」
「クソッ!その笛貸せよ!今こそ吹くべき時だろ!」
「違いますー♪私はあんな変質者じゃなくて、れっきとした朔良ちゃんの友達なんですからー♪んふふ♪」
ああそうだ。こいつはこういう人だった。私に『キスしていい?』とか『可愛い』とか甘ったるい声で囁いてくる変な奴――それが木更津いたちという女だった。でも……不思議と嫌な感じはしない。私はすぐ笑顔を取り戻した。
「ふふ。いたちったら、本当に抜け目がないんだから」
「そうよー?私は朔良ちゃんに関しては”スキ”が無いの♪他の誰よりもね」
私たちはげらげらと笑った。
「ねえ。この後予定ある?大丈夫だったら、一緒に近くのドーナツ屋さんに行きましょ?リフレッシュも兼ねて」
「賛成。私もちょうどお腹が減ってたんだ」
「じゃあ決まりねぇ!何食べようかなー?チョコもクリームもなんでも揃ってるしぃ」
「いたち、太るよ?」
「あー!それは女の子には禁句なのよー!朔良ちゃん、ひどーい!」
私といたちは楽しくはしゃぎまわった。なんてすがすがしい休日なんだろう。こんな日がずっと続けばいいのに……私はそう思った。