第7話
シーレは考えていた。
教室はすっかり空っぽになってしまった。
朝から立て続けに6つの授業を終えて、教師が明日は朝から実技だと言い終えて、学生達は一人残らず教室を出て行った。ほとんどの学生達がシーレに会釈をしたり、手を振ったりして別れの挨拶をしてくれたのに、誰も声を掛けてはくれなかった。だからシーレも、してくれたように会釈をするだけだった。なんの言葉も発しなかった。朝からずっと、声すら出さずに終わった。
それもこれも、隣で寸分も動かずに突っ伏したままのガープのせいである。
朝の一件以来、ずっとこの調子だ。
ぴくりともしない。
昼休みもずっとこのままで、シーレはトイレも我慢しなければならなかった。水分補給もできていないからなのか、不思議と我慢出来たけれど、そろそろ喉の渇きも限界である。
しかも、ガープはずっと手首を掴んだままだ。
イマミアが作った弁当を勝手にリュックから取り出して、勝手に食べるときも本当に苦労した。よっぽど魔法を使って振り払ったほうが楽だったのに、自分もどうして耐えるほうを選んでしまったのか。
さて、それよりもガープはひとり教室に残る日課でもあるのだろうか。
それとも友人に「さよなら」を言われない関係性なのだろうか。
それとも普通は誰とも「さよなら」を言わない? それが風習?
一家以外と関わりのなかったシーレは、とんと理解ができない。見当はずれなことばかり考えて、自分達がどれほどの口論をしたのか、さっぱり理解できていなかったのだ。他人の気まずさに共感が持てない。
黒板の上にある時計が午後の4時を回る。
ピンときた。
さては寝ているな?
昨日の酒に酔って寝てしまったのと同じように、今も深い眠りについているに違いない。
けれど、イマミアが弟達の保育園(それがなにかは知らない)の迎えや食事の支度があるから午後5時までには帰ってくるように言っていた気がする。そろそろ起きてもらわねばならないだろう。
「ガープさん。保育園に行かなければならないとイマミアさんが仰っていました。そろそろ帰りましょう」
ただでさえ魔法は使ってくれるなと言われている。一瞬で移動できないのであれば、予めの準備は不可欠だ。なのに、ガープは体を起こしてくれない。
諦めて、溜息を吐く。
教室を見回しても、やはり誰もいなかった。
夕陽に照らし出されたオレンジ色の教室は、あれだけの人がいたのに今は誰もおらず、どこか侘しさを感じさせる。
いい静けさだった。
居心地がいい。
シーレが通っていた学校は、一家の屋敷の中にあって、同年代の子ども達が一様に魔法を習うだけの場所だ。学校というよりは、家庭教師というほうがわかりやすいのかもしれない。家族しかいないから、教室といっても普通の洋間であるし、数人しかいない。こんなふうに、皆が同じ服を着て、わいわいと授業を受けることなんてありはしなかった。体育なんてものも、なかった。
どこに行っても家族しかいないから、こんな外の世界があるとは知らなかった。
魔法がない世界があるなんて。
そして、魔法がなくても生活していけるなんて。
貧しい人を救う。漠然とした夢の本質を、自分は知ろうとしていなかったのだろう。外の世界には困っている人がいるから助けてあげるのが自分の使命であると、自惚れていた。なにも知らなかった。
魔法なんて、必要とされていなかった。
自分の傲慢さが痛々しくて、動きたくなる。だからガープを促した。
「帰りましょう。イマミアさんが大変ですから、お手伝いをしないと。ガープさん、起きてください」
「俺、あんたのこと見てなかった」
「……はい?」
寝ているのかと思えば、起きていたらしい。机に突っ伏したまま、彼は語り出した。バンダナをしていないせいで、髪が垂れて顔すら見えない。
「魔法を使える天才はお気楽で、遊んで暮らして、規則正しい生活で、睡眠時間たっぷり、いつでも余裕たっぷりなんだろうなと思ってた。俺達みたいに朝早く起きて、仕事して帰ってきても家の中はいつもうるさくて、寝たら一瞬にして朝で、またやらなくちゃいけねえことが山積みで、体が重くて、起き上がりたくないなんて思う朝なんてこない。やりたいことがあっても弟の世話とか色々あってできなくて焦って、すべて投げ出したくなって、そんな毎日から逃げ出したくなることなんて、一度もねえんだろうなって、ずっとそう思ってた。
なんで、そんなふうに思ってたんだろう。
あんたも、普通に人間なのに。
あんたにも、やりたいことがたくさんあって、やれなくて、辛くて、もどかしくて、横になったと思ったらすぐに起きる時間になるみたいなこと、きっとたくさんあったはずなのに、なんでだろう。なんで、俺、あんたはそんなこと絶対にないって思ってたんだろう」
手首を掴む指が痛い。
ぎりぎりと締め付けて、爪が腱を削ってしまいそうなほど痛む。
それが、彼なりの勇気の振り絞り方だったのだろう。
体を強張らせて、ようやく言葉を紡ぎ出せている。
言えばよかった。
言っても無駄だと諦めないで、ちゃんと言えば、この人もわかってくれるじゃないか。
ガープは気落ちした声で呟いた。
「……俺、最低だ……」
「今頃気が付いたんですか」
「……お前も最低だな! こんな状況で!」
「今頃気が付いたんですか。人間なんて、どの人も最低ですよ。その中で自分がやりたいこと、やらなくちゃいけないことをやるだけなんですから今更最低最低と喚いたって仕方がないことです。……早く帰りましょう。我が家と違って、ガープさんの帰りが遅くなったら、心配をする人がたくさんいるのではないですか?」
言うと、するすると手首から手が離れて行く。さあようやく立ち上がるかと思えば、そうしない。
いい加減にしないかと思って口を開きかけたとき、ガープが言った。
「……合わせる顔がない」
「はい?」
「恥ずい……顔、あげられない」
「なにを仰いますか。これから毎日毎時間毎分毎秒一緒にいますのに、そんなこと言っていたら生活できませんよ?」
「バイク乗るまで目隠ししてて」
「子どもじゃあるまいし」
「早く」
「はいはい。わかりました。どうぞ、目隠ししましたよ。手で両目を覆いました。なにも見えません」
「本当か?」
「早くしてください。何時間、聞き覚えのない授業に堪えたと思ってるんですか。機械工学ってなんですか、もう」
すっと顔を上げたガープと目が合う。
ガープは眉間に皺を寄せて、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「おま……ッ! 目隠ししてねえじゃねえか!」
「嘘をつきました」
「嘘つき最低!」
「なんと仰っていただいても結構。それより、イマミアさんがお弁当は全部食べること、そしてお弁当箱は濯いでおくことと、かなり厳しく言っておられた気がしました。ガープさん、そもそもお弁当を召し上がられておりませんが、大丈夫ですか? 私は、ガープさんが拗ねて動いてくれませんでしたのでお弁当箱すら洗えませんでしたしお手洗いにも行けませんでしたと言い訳ができますが」
「ぐっ……!」
ガープは鞄から弁当箱を取り出し、蓋を開けた。悪くなっていないことを確かめると、一口ですべて腹に抑める。本当は悪くならないようにこっそり保存の魔法をシーレが掛けてあげていたのだけれど、それは言わなくてもいいだろう。ガープはふたりぶんの弁当箱をざっと濯いで、バイクへと向かった。
「イマミアさんって、そんなに怖いのです?」
「馬鹿言え。親父が束になって掛かったって勝てねえぞ」
ほう。それはそれは自分の母親とは違った畏怖がある。シーレは思いながら、ヘルメットを被った。この顎紐が難しいのだ。見えないところで留めなくてはならないとは、実に不思議な感覚である。目に見えていれば、簡単なのに。
「貸せ」
先にヘルメットを被ったガープが覗き込んでくる要領で顎紐を留めてくれた。子ども扱いされているみたいで、少し憎らしい。
「やり方を教えて下されば私にもできます」
「あ? だから、感覚で嵌ったな、ってところでグイッてやんだよ。そしたらカチッて留まるから」
「当てにした私が間違っていました」
「はあ!? 言っとくが、今のめっちゃくちゃわかりやすい説明だからな!? 誰しもがわかるからな!?」
「ちゃんと夜ご飯食べられます? 残したらイマミアさん、怒ると思いますよ」
「あんなの腹一分にも満たねえよ」
男子高校生って、そういうもの。
とりあえずふたりは、バイクに跨って走り出した。
ほんの少し、薄暗い気持ちが晴れた気がした。