第10話
「これは、なにを作ってらっしゃるのです?」
夕食後、ガープは必ず機械を回す。
ひとりで稼働させても危険が少ないものらしく、ガープは真剣な眼差しでいつも一心不乱になにかを作っていた。集中しているときに声を掛けてはならないだろうと、一息つくのを待って訊ねてみた。
ガープは疲れたであろう目頭を抑えながら答える。
「卒業制作。高校3年間の集大成として、習った技術を全部使ってなにかひとつ道具を作らなきゃ卒業できねえんだ」
機械の周りにはカゴがいくつも置かれていて、その中にガープが作った大小様々な部品が入れられている。シーレはひとつも部品の名前がわからなかった。ふむ。
「なるほど。どのような道具なのです?」
ガープがバンダナを外した。前髪がぱさりと落ちて目元を隠してしまう。そうなると、あの輝いていた眼差しからいっきに力が抜けるのだから不思議だ。
「服の仕分け機。ハンガーに掛けた服をこのフックに引っ掛けると自動的に重さを測ってくれる。重量別で仕分けて、この棒のどこかに並べて掛けてくれる。つまり夏物なのか、冬物なのか。ティーシャツなのか、ズボンなのか。自分で綺麗に掛けなくても、フックにさえ掛けちまえば設定した通りに勝手に並べてくれる道具。面倒くせえだろ、わざわざ服をどこに掛けるか考えたり見付けたりすんの」
「ははーん。片付けやすいうえに、見つけやすいということですね」
「そう。部品はあらかた出来たから、あとは組み立てて動かしてみて、それから改良していくしかねえな。こっからが長んだよ……」
袖口で汗を拭うガープは、けれど嫌そうな顔ではなかった。
「お疲れのようですね」
「眠れねえからな!!」
「どうしてでしょう。私はぐっすりなのですけど」
「腹立つわー。よし、今日は辞めにしよう。疲れてるときに頑張ると事故のもと。やめどきも肝心」
そうしてふたりは風呂に入り、ベッドに並んで寝転んだ。
眠れなかったのは、今日はシーレのほうだった。
急に無力感に襲われたのである。ガープは毎日なにかを生み出そうと努力していて、自分は隣に座ってじっと眺めているだけ。時折、退屈になってぼーっとしてみたりして、ガープがバンダナを外すのをひたすら待つ。
(私、このままでいいのでしょうか)
なにもしなくて、いいのだろうか。これまで絶えず努力をしてきたから、急になにもできなくなって自分の存在意義がわからなくなってしまった。
隣を向けば、ガープが珍しく目を閉じて、小さく呼吸を繰り返している。
なにか、できることはないのだろうか。
「なにも、ないのでしょうね」
ひとり、呟く。
その嘆きはとても虚しかった。もう目を閉じてしまおう。自分などいてもいなくても変わらないこの世界から目を背けるように、寝返りを打って眠ってしまって、見ないふりをしてしまおう。死ぬまでずっと、見ないでおこう。
毛布の中で寝返りをしようとすると、腕を掴まれて制された。ガープが起きていたのかと思って見ると、ガープは眠っている。なんだ、寝惚けているだけか。
そういえば、目が痛そうだった。目を酷使して、疲れているのだろう。
(ほんの少しなら……)
イマミアに禁止されているけれど、誰にも見られていない今なら、ほんの少しなら。
シーレは指の腹をガープの瞼に滑らせた。
(また、あなたの眼差しが輝きますように。また、あんなふうに笑って道具を自慢してくれますように。少しでも、楽になれますように)
小さく詠唱して、癒やしの魔法を掛けた。
これで役に立てただろうかと、ちょっぴり落ち着きを取り戻して目を閉じる。
そのとき、ふと指が痙攣した。
自分の意思では止められず、がくがくと震える手を呆然と見つめる。
けれど、すぐに治まった。
(私も寝惚けているのでしょうか)
眠ってしまえば治るだろう。
シーレは安直に考えて、押し寄せてきた睡魔の小波に身を委ねることにした。
◇◆◇◆◇◆
翌朝、目が覚めたのは眠りを充分に摂ったからではなかった。揺さぶられている気がして瞼を押し上げたのだ。けれどそこには誰もシーレを起こそうとしている人なんていなくて、ただ痙攣する右手があるだけだった。
どこか、おかしい。
なにか、変だ。
自分の中のなにかが異常を発しているに違いない。病院に行かなくては。
すぐにガープを揺り起こそうとしたのだが、ガープの寝顔があまりにも心地よさそうだから気が引けてしまった。そうこうしているうちに、また痙攣がやむ。
やや遅れて起床したガープは、珍しく先に体を起こしているシーレに問うてくる。
「どうした」
言おうか、迷った。
迷って、やめた。
このまま死んでしまってもいいか。
どうせもう、なにもできないし。ガープのように目標があるわけでもないし。地位を取り戻せるわけでもないし。ずっと座ってるだけだし。食べて座って時間が過ぎて寝るだけだし。
ガープの時間を奪ってまで病院に行って治してもらう価値が、もはや自分に見い出せなかった。
もう、いいや。
死んだらこのピアスも取れるだろうし、誰もなにも困らない。時間と手間を取らせるほうが迷惑だ。
だからシーレは首を振った。
「いいえ、なんでも」
言うと、ガープは目を擦りながら欠伸をした。
特に気にも留めていないらしい。「あっそ」それだけだ。
そう。
それだけ。
手の甲を見て驚いた。数字が減っている。
(きっと邪魔にならないように"なんでも"と答えたからですね!)
よかった。これで正しかった。
なのにどうしてか、数字が減ったことをガープに言い出せなかった。
◇◆◇◆◇◆
事件が起きたのは、昼食を終えてすぐの数学の授業の半ばのことだった。
座学とあって、居眠りが多かったのだろう。若い男教師が説教を始めたのだ。新任かもしれない。情熱的で、授業風景はこうでなくてはならないと確固たる信念を持っているのが見受けられる。スーツもきっちり、髪型もばっちり、眼鏡もかっちりとした痩身の彼は、しかし声を張るとなかなか迫力があった。
「卒業を控えてるからって弛んでるんじゃないか!?」
どん、と教卓に教科書を打ち付ける。静かだった教室がぴりついて、むくりと体を起こすクラスメイトがそこかしこにいた。これで収まってくれればよかったのだが、教師はまだ物申したいようだった。
シーレは大声が苦手だった。
静かなのが好きだし、騒がしいのは落ち着かなくて好きじゃない。それに父も母も、家族達は静かに怒るタイプで声を張り上げる人はいなかった。だからどうしても、こうして怒鳴られると萎縮してしまって、しっかりと背筋を伸ばしていたのに自分まで叱られている気分になる。
そして隣のガープはまだ眠っている。起こさなければと、肩を揺らした。囁くように起こす。
「起きたほうがいいですよ」
だが、それが裏目に出た。
男教師が大仰に溜息をついてみせたのだ。
「ガープは夜も寝てないみたいだな?」
いや、昨日はよく寝ていた気がするのだが。
「これだから若くして結婚する夫婦っていうのは……。少しくらい抑制したらどうなんだ?」
これは、自分に言われているのだろうか。
なにを抑制するのだろうか。
夫婦だから、なんだというのだろうか。
さっぱりわからないでいると、教師が手応えを感じなかったせいなのか、余計に詰め寄ってきた。
緊張する。
なにを怒られているのかわからないのに、怒られているのはわかるから、体が強張った。
ぴくん。
指が動いた気がした。
「なにもわからない顔して、やることやってるんだろ!?」
なにを?
なにを、怒られているのだろう。
手ががたがたと震えるのは、きっと恐怖のせい。
視界の端で、ガープの後ろの席の子が机越しにガープの背中を殴って起こしてくれたのが見えた。ガープがのっそりと起き上がり、目を瞬かせて、ようやく異変に気が付いた。
助けてと、なぜ口から出ないのか。
ああ、そうだ、助けてなんて、誰にも言ったことがなかった。今が助けてもらうときなのか、よくわからないのだ。もう少し耐えればなんとかなる。もう少し自分が強くなれば、どうにかなる。だからまだそのときじゃないと思っている。
「やっと起きたのか。お前は猿か? 盛ってないで、夜はさっさと寝ろ。授業に支障が出るだろう」
それで、あらかたの経緯を察したらしかった。ガープの眉間がぐっと寄せられる。あの三白眼がさらに鋭くなった。それはアバドンによく似ていた。
「……あ?」
たったの一言だったが、それは明らかに反抗だった。その迫力からか、教師がたじろいだ。だが引っ込みが付かないのか、さらにヒートアップしてしまう。
「教師に向かってその態度はなんだ」
「うるせえゴミが」
「な、なんだと!?」
ガープが立ち上がって凄んだ。教師が一歩、あとずさる。
「んだよ。ならシーレにもう一回なんか言ってみろよ」
教師がちらりとシーレを見たが、なにも言わずに矛先をガープに戻した。ガープの失笑が聞こえる。
「俺が寝てるときじゃねえと女に強く言えねえのか」
「じゅ、授業態度の話をしてるんだ!」
「へえ。で、なにが盛んなんだって? え? 言ってみろよ、ここでよぉ」
「とにかく──」
「言えねえのか──」
ぱっと耳を塞いだのは、もう我慢ならなかったからだ。
ふたりの声が、張り詰めた空気が、シーレの体をぶるぶると震わせて止まらなくなってしまった。
「……シーレ?」
ガープの声音が変わった。それが心配してくれているのだとわかるのに応えられない。そして、ガープが伸ばした指がそっとシーレの手に触れたとき、なにかが切れた。
ばつんっ
その音は、教師が天井に張り付いた音だった。
クラスメイト達が驚いて立ち上がる。
がつん、がちゃん
机や椅子がすべて天地がひっくり返ったみたいに天井に張り付いてしまう。
そして風も吹いていないのに、窓ガラスがガタガタと揺れ始めた。
「やばい逃げろ!!」
誰が言ったのか。
クラスメイト達はこぞって出入口に向かったのにドアが開かなくて混乱状態になる。ドアを叩くもの、助けてと叫ぶもの。
「降ろせ! やめろ! 助けてくれ!」
天井の教師がなにかを言っている。
(違う、私じゃない。私はなにもしてない!)
なのに体の震えは止まらない。
「シーレ、なにやってんだよ! 魔法をとめろ! もう大丈夫だから!」
なにが大丈夫だというのだ。震えが止まらないのに。
こんな魔法、使っていないのに!
「降ろせ! 降ろせよ早く!! この化け物!!」
違う。私じゃない。
「私じゃない!!」
声と共にシーレの全身からぬるりと現れたのは、黄金に燃え盛る太陽だった。教室に突如として現れたサッカーボールほどの太陽はどんどんと膨らんだ。
「爆発するぞ!!」
根拠のないその声にクラスメイト達が半狂乱になる。甲高い悲鳴が、シーレをさらにパニックにさせた。
私のせいじゃない。
私はなにもしてない。
しかしその太陽は椅子や机を呑み込むように吸収して、お腹を膨らませていく。
ずるずると教師が太陽に引きずり込まれようとしていた。
「シーレ! 落ち着けって!!」
ガープが言う。
どうやって?
どうやって落ち着けと?
シーレは自分の体を抱き締めるようにして目を閉じた。
「誰か……止めて……っ」
涙が滲む。
「た、たすけてぇーーー!!」
ふわりと浮いた教師が太陽に呑まれる。断末魔の悲鳴が耳をつんざく。
その寸前、太陽が弾けた。
きらきらと火の粉のように降り注ぐ欠片は綺麗に消え去って、まるで何事もなかったかのように机と椅子が教室に並んでいた。教師も教壇に尻餅をついていて、狐につままれたみたいな顔をしている。
がらりと、教室のドアが開いた音がした。
「シーレ」
名を呼ぶ声は──。
シーレは震えながら振り仰いだ。
立っていたのは、長い銀髪を腰まで伸ばした長身の男。厳かな白のローブに見を包んだその男を、シーレはよく知っていた。
「遅くなってごめんね。助けにきたよ」
それはシーレの婚約者だった。




