待ちぼうけ
そこで待っててと言ったまま、あの人は二度と戻って来なかったのです。私はしばらく「そこ」から離れることが出来ず、夜な夜な背丈程ある草をかき分け山の線をなぞっていましたが、一年経ってもあの人は姿を現さなかったので、仕方なく諦めることにしました。
あれから六年の月日が経ち、大島で夕焼けを見ていたら、不意に背丈程ある草をかき分けて山の線をなぞってみたくなる私がいました。
六年ぶりの佐渡とあの人の残した下刈り鎌、木造平屋建て、きしむ床。久しぶりの我が家へ足を踏み入れるのは、非常に勇気がいることでした。みんなは「ここに残るな」と追い出すように私を東京によこしたけれど、私が六年も佐渡を離れていたことを知っているかのような満月は、冷ややかに笑っていました。
土間の脇にある棚を開けた理由がわかりません。あの人の髪の毛と前歯を見つけました。悲しくもないのに涙が溢れます。私は日が沈むや否や、裏庭の奥にある大根畑を横切って、背丈程ある鋭い草をかきわけながら、「山の麓までは絶対に」と半ば義務感に駆られながら、前へ前へと進みました。
後方に背中をさする気配を感じましたが、走ってはいけないと誰かが囁くのです。きっとあの人の声です。後ろから、黒い影がひどく重低音で首もとを揺さぶるような気がして、私は少し身震いがしましたが、このまま一定の速度で歩いていればきっと山の麓までは辿り着けるだろうと信じていたので、草をかき分ける手から滴る真っ赤な血液など気にも留めず、満月に導かれるままひたすら歩いていた、と思います。
あの人は走るなと言いました。だから黒い物体が優艶に私を覆い世界がさかさまになった時、どうかこのまま山に飛ばしてくれと祈りましたが、再び深い緑が視界を占領したものだから、もう永遠に麓には辿り着けないような気がして不安になりました。だから私はまた必死に歩きました。確か足は無かったと思います。
ふと、あの人と摘んだブルーベリーの汁が白いTシャツに染みついてしまったことを思い出しました。「そんな色着てくるから」と笑いかけた時の白い歯。土間の棚に眠っていた二本の前歯。
黒い物体は、その昔あの人と裏庭で見つけたたぬきにも似ていたし、ええ、考えてみれば野犬だったのかもしれません。頬のあたりでざわつく乾いた葉っぱを避けようとしたら手がありませんでした。とてもかゆいのです。
うごめく彼らの口元に滴るのは、一緒に摘んだブルーベリーの汁。黒光る紫から露出した二つの頂上を見た時、私は初めてあの人以外に裸体を貪られる辱めを受けました。そんな乱雑で何が味わえるのでしょう?お腹はスープ皿のようにへこんで中から熟成ワインが溢れ出ています。お好きなだけ飲んでくださいね。足がきれいに二本並んでありましたから、やせこけた私の太ももはお口に合わないのでしょう。好き嫌いが激しいところはあの人に似ています。
とうとう個体が三、四に引き裂かれた時、左目だけが勢いよく飛び出しました。ゆるやかな弧を描く間、私は冷笑する満月を掴みかけましたが、すぐに強い衝撃を受けました。その後はもう、柔らかな「それ」にぶつかるまで、しばらく乾いた土を跳ね続けていました。
「ありがとう。目が回るところだったわ」
そう言って、左目に映った「それ」があの人の右目だと確信できた時、私はついに自分がここにいる意味を理解できました。見間違えるわけもない、下刈り鎌がちゃんと右目に刺さっていますから。
ずいぶん待たせてごめんなさいね。
あの日、あなたが私のお茶に入れたものが愛情の証なら、私はそれを受け入れていたのに。いえ、牝狐追う後ろ姿など見せなければ、下刈り鎌と共にこんな山奥で、あなたは、こんなところで七年も山の線をなぞらなくても済んだのに。
でももう許します。獣食った報いなどとは言いません。生々世々、私の左目はあなたの右目を捉え続けるのみ。心配いらないわ。これからはずっと一緒でしょう?永遠なんてほら、瞬きひとつ。
おわり
哀れな殺人のストーリーがスプラッター要素で肉付けされています。
愛人と逃亡するために自分を毒殺しようとした夫を殺め、山の麓に放置した妻。七年が経ち、佐渡に戻った妻は、月夜に照らされた大根畑の先の草むらで、野生動物の餌となり人生を終えました。
いくつかの描写は、現実ではありえません。どこまでが現実でどこまでが夢なのか。彼女の妄想なのか。飛ばされた目玉は、最後に「下刈り鎌が刺さった夫の目玉」に出会います。一生瞬きなどしなくて良い場所で、瞬きなどできようもない瞳同士が、永遠に見つめあって時を刻む。妻の願いが叶った瞬間でもあります。
殺人犯は現場に戻る。殺めてもなお、夫を愛していたことを死に際に再確認する哀れな女の最期のお話でした。