さん
美味しい。
甘い。
もっと……もっと。
「あっ……ふづき……」
いつの間にか白くぼやけていた視界が、突如としてクリアになりました。
そして、目に映った光景に私は絶句しました。
辛そうに顔を歪めている七緒くん。そして、彼の右の首筋から……襟元、肩まで紅く染まっているという……現実。
「あ……私」
気が動転して、呼吸がうまくいきません。
やってしまった。七緒くんに怪我……血、血……!
――もっと。まだまだお腹いっぱいじゃ無い。
私の声と同じ。でも別人のものみたいに耳に入ってきた言葉に、私はコートだけを持って七緒くんの部屋から、家から、逃げ出しました。
住宅街。公園。駅前。
目的地なんて無く、ただただ走って。最後に辿り着いた先には、河川敷が広がっていました。
「あら?」
走り疲れて肩で息をしたいたら、スーパーの袋を持った優しそうなお婆さんが私の方へと小走りでやって来ます。
何だろう? と、ジっとお婆さんを見ていたら「それ血じゃない? 怪我をしているの?」なんて尋ねられて息を呑む他ありません。
「え! ちょっと――」
私は再び駆け出しました。
お婆さんの呼び止めるような声が最初だけ耳に届きましたが、疲れというものを忘却したらしい私の体は、そんなのお構い無しです。
私 の背より高い草むらに入り込み、ガサガサガサと道とは呼べない場所を我武者羅に突き進みます。すると、人工的な灰色の部分――コンクリートの地面や柱といった物が目立つ場所。つまり高架橋の下に踏み込んでいました。
もうすぐ真っ暗になってしまう事が分かりきっている高架下。柱にたくさんある落書きが、私の中にもぞもぞと集まりだした恐怖心を強めている気がします。
けれど、元来た道を戻る気には全くなれません。私はもう少しだけ、幅広い高架下の真中の辺りまで足を進めて、そこで座り込みました。
「疲れた……」
背中を丸くして、三角に折った膝に置いた腕を額を置くための枕にしたら、瞼が重くなってきました。
……ヤバいかもしれません。たくさん走ったから今は全く気になりませんが、季節は冬です。手の甲や首に当たる風が気持ちいなんて、すぐ言っていられなくなります。つまり何が言いたいかというと、こんな場所で寝たら百パーセント酷めの風邪をひきます。
コート。まだ体に熱が残っている上に、首や背中の汗が気持ち悪いから本当は着るの嫌なんです。ですが、羽織っておきましょうか。
モソモソ動くと、ブラウスの腕に点々と血痕が付着しているのを見つけてしまいました。さっきお婆さんが指摘した場所です……。
私が、七緒くんの首を噛んだ証拠。
私が、七緒くんの血を吸った証拠。
私が、七緒くんに普通じゃ無いとバレた証拠。
私が……私が、七緒くんを傷付けた証拠――――。
鮮明に思い出せる血に染まった七緒くんの姿。
私はそこで、ようやく気付きました。
あんなに出血していた彼を、そのまま置いてきたという事実に。
「も……戻らなきゃ」
手当て……いや、救急車?
ちょっと待って。あれ、下手したら失血死してるんじゃないですか?
「どうし、よう」
カタカタカタカタ、と。奥歯が上手く噛み合わず、唇が震えました。指先からサァっと冷たくなってくるのは、決して――冬の外気をまともに感じられるほど、体が冷めてきたからでは無いでしょう。
嫌な想像ばっかり。まるで一桁の足し算みたいに、簡単に頭の中に浮かびます。そうして無意識に「七緒くん」と、彼の名前を絞り出した瞬間でした。
ガサガサ……トット、タン。
のっぽな植物をかき分ける音とコンクリートを踏む音が近づいてきて、
「何考えてこんな所に居んの?」
物凄く不機嫌な顔の七緒くんが居ました。
困惑する他ありません。私はとても心配していたのに、音からして走っていましたし……首に傷は無いですし。
「え? ええ? どうして? 怪我……は?」
「文月の噛みついたとこは、見た目ほど酷くなかったから絆創膏貼ってる。場所はさっきあっちの方で挙動不審だったお婆さんに教えてもらって予想した。――それよりも、馬鹿でしょ。暗いのにこんな場所で休憩とか、襲ってくれっつってるようなもんじゃん」
ポカンと口を開けたままの私の首に、桃色のマフラーを巻く七緒くん。
手際はとても良くて、話し方の調子はいつも通りで――私はたくさんの疑問符を浮かべました。だって、あまりにも不可解だから。
「七緒くん、気持ち悪くないの……?」
「あ?」
目が合った彼の声に含まれているドスに思わず怯みましたが、ギュッと両手でスカートを握りしめて、もう一度自分の口を動かします。
「私、七緒くんの血を、吸ったんだよ? こんな……変な牙で刺して、怪我させて――」
「別にどうでもいいし」
私の耳、おかしくなっちゃったんでしょうか?
あまりにもさらっと、色んな意味で私の言葉を切った彼は、呆れたと言わんばかりに息を吐いていました。
「そりゃ、驚いたし痛かったよ。でもさ、別に怖くはなかった」
「でも……」
「俺があの程度でドン引きするほど神経細く見えてる?」
神経細いとか太いとか言う問題でしょうか?
明らかに人外行為です。そうじゃ無くても奇天烈サイコな子です。それに何より、
「――私……殺すところだったんだよ? あのままだったら、本当に七緒くん死んじゃってたかもしれないんだよ?」
お母さんが言った通りだった。ついウッカリ気を抜いたら……私の体、七緒くんが死んじゃうまで彼の血を求めるようになってる。
「今も、すっごく甘い匂いがしてて……七緒くんをいつまた噛んじゃうか分かんないの」
怖くはないけど、痛いとは言っていました。初めて自分が彼の血を飲んでしまったと気づいた時も、とても辛そうでした。もうあの表情を見たくないです。ううん、次はあの表情すら無いかもしれません。瞳孔が開いて、冷たくなっているかもしれません。
「嫌だよ、私。七緒くんを……」
――――傷付けたくない。
目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとしました。
嗚呼、もう……最低です。どうして私の方が泣いているんでしょうか。
我慢出来なくて、怪我させて、放置して、心配かけて――悪いの全部私なのに。……泣いて良い立場じゃ無いのに。
「文月に殺されるなら、ある意味本望だね」
罪悪感から下を向いていた私ですが、頬を両手で包まれてやや強引に上を向かされたら、七緒くんが微笑を浮かべていました。
「でも、文月じゃ俺を殺すとか無理だよ。血ぃ吸うだけで他はいつも通りだったじゃん」
彼は、漫画やアニメの吸血鬼っぽく、魔法が使えるとか人間より力が強くなったりはしていなかったと指摘しました。
「だから、やろうと思えば力づくで押さえ込んで縛って色々出来たけど?」
縛って色々!?
七緒くんのSっ気には薄々気づいてましたけど、まさかそういうのが好き!?
あわあわとしていましたが「それじゃあ……」と、今の言葉から浮かんだ疑問を口にします。
「どうしてさっきは、そうしなかったの?」
「してほしかった? 文月ってマゾだね」
「ち、ちちっ、違……っ!」
とんでも無いことを口走ったと、気付きました。ひぇえ! 後悔先に立たず……穴を掘りたいです。この足元が土だったら即座に掘って埋まってるのに!
「正直言うと、密着してくる感触気持ちいな~って思ったからかな」
ひゃー! この人何言ってるんですか!?
「文月って見た感じは普通だけど触ってみると意外に胸とかあ――」
「言わないで言わないでっ! すぐダイエットするから忘れてぇ!!」
「しなくて良いって。ふわふわ感無くなったら嫌だし」
ついさっきまで凄くシリアスな空気だったのに。何で私、七緒くんに気にしてる所を突かれてほじくり返されてるのでしょう?
体重計の呪いですか? 定期的に乗らないと以後こう言う目に遭わされちゃうんですか?
ズズッと、恥ずかしさに鼻をすすったら「ちょっとは気ぃ紛れた?」なんて声が聞こえてきて……、腕を引かれて七緒くんの胸に、頭を軽くぶつけてしまいました。
あれ? 甘い匂いが……全然しないです。
どうしてだろうと不思議に思っていたら、七緒くんの優しい澄んだ声が私の名前を――「文月」って、紡ぎました。
「文月が俺を傷つけるのを嫌がるように、俺だって文月が傷つくのは嫌だよ」
硝子細工に触れるように優しく。後頭部に七緒くんの手が添えられて、上から下へ。上から下へ。そうやって撫でてもらうと、胸の奥に少しずつだけれど、暖かい光が集まってくる気配を感じました。
「話の順番が少しおかしいんだけどさ……文月はどうしたい?」
「え?」
「このまま別れる?」