にっ
「文月、もうチャイム鳴ったよ」
「食堂行こう」
「みっ!?」
四時間目の終わった開放感に、机の上を片付ける手が止まっていたようです。友達の壱湖ちゃんと、初菜ちゃんの声に吃驚して口を大きく開く所でした。勿論、即座に両手で隠したのでセーフのはず、です。
「……あんた今日どうしたの? 口臭でもしてんの?」
「え! もしかして昨日は焼肉だった!? 羨ましいヤツ!」
二人の発言を聞いた周りの何人かが、とても残念な子を見る目になってます。特に、お肉に目を光らせている初菜ちゃんに対するものが。
「違うの……その、虫歯が、目立つから」
あまりにも苦しい嘘故に、今度は私が、壱湖ちゃん達から哀れみの視線をもらってしまいました。
「まあいいや。それより今日の放課後どっか遊びに行く計画立てよ!」
「はーい! 私ステーキ食べに行きたーい!」
「お前は肉から離れろ」
二人に引っ張られて教室から廊下へ出ました。いつもそうですが、二人のやり取りを見て静かに笑うこののほほんとした時間、私大好きです。あれ? 食堂はまだ遠いのに甘い良い香り……
「文月、今日は俺ん家ね。母さんが文月と食べたら良いって、昨日の晩パイ焼いてたんだ」
――距離、僅か数センチ以内に七緒くんが居ました。
どひゃあああああああああ!
ゴンッ! と、勢いよく離れたために私は壁にぶつかって痛い目に遭います。
「何やってんの?」
「ごめん。びっくりして……つい」
壁と接触したのは後頭部なのに、鼻の頭まで何故か痛くてその場にしゃがみ込みました。
ダメだ……私。こんなふうに今日はずっと七緒くんを避けてて、変な子のレッテルがもう張り場無いくらいにいっぱいになってます。
ううぅ……何で何で何で! どうしてこんなに美味しそうな香りなの~! 七緒くんは気配殺していつの間にか近くにいるし。油断も隙もあったもんじゃないです!
「ケンカ?」
「ちょっとー、付き合ってまだ三ヶ月でしょ。あんな見てる方が焦れったい両片想い劇繰り広げたんだから、結婚までこぎつけなよ」
初菜ちゃんがバシっと七緒くんの背中を叩いているのが見えました。結構強い力だったようです。一瞬ですが七緒くんは痛そうな顔をしていました。
七緒くんに「大丈夫?」と、聞こうとした時。
「もうあんた達をくっつけるために私達がどれだけ根回しした事か……」
「体育祭並みに力使ったよね、クラス全員で……」
嬉しいけど、同時にちょっぴり恥ずかしい気持ちになる過去が掘り返されそうになっていました。
「そういや空廻った応援してくれてたね。でも実際に頑張ったのは俺だからね。そもそも壱湖と初菜は、邪魔してた記憶があるんだけど?」
「当たり前だ腹黒野郎。文月は私達の癒しの小動物お嬢様なんだぞ」
「兎の皮を被った狼の毒牙から必死こいて守るわ常識的に」
七緒くんに対する二人の印象がそんなに酷かったなんて、初めて知りました。
「文月、焦れったいの見るのが我慢できなかったのと、同窓会で気不味いの嫌だから結婚しろっつってるけど、本心は違うからね。私も初菜も」
「変なプレイの強要とか、何かあったらすぐ言うんだよ。あの野郎を社会的・肉体的・精神的フルコースで抹殺するから」
二人の目は本気そのものでした。
ごめんなさい。その気遣い全然喜べないです。
「言っとくけど文月は多少アレなプレイじゃないと燃えな――」
七緒くんが何を口走ろうとしてるかはよく分かりませんが、彼に全てを語らせてはならないと直感が告げたので、口を塞ぎました。
七緒くんのお馬鹿! 有りもしない事を変に言わないでぇ!
息が止まってしまいそうな思いで内心叫んでいましたが。色々と遅かったです。
「「死に晒せ朝日奈七緒ぉおお!!」」
飛び膝蹴りを繰り出す二人。
それを避けて廊下を風のように走り抜け逃げていく七緒くん。
「待て変態狼!」
「お前文月に何した! 場合によっちゃ男でいられなくすんぞぉ!」
ダダダダダダダダダッ――――――!! !!
私、完全に置いていかれました。
七緒くんの家は私の家からそう遠くありません。徒歩約十分です。でも出会ったのは高校になってからでした。小学校は私と七緒くんの家の間で学区が切られ、同じになるはずだった中学校は、私が私立の女子校に行ってしまったので。
そして今、彼の部屋でベッドを背もたれにしてアップルパイを頬張ってます。
男の子の部屋ですが、散らかっていません。普段は散らかってるのだと思いますが、私を呼ぶので頑張って片付けたんだと思います。本棚の乱れ具合と机から飛び出してる紙切れが、実は七緒くんがあまり掃除得意でない事を教えてくれます。
なんでもソツなくこなすように見えて、こう言う一面を見るとやっぱりまだ同い年の男の子だな……と実感できて、可愛いと思うんです。勿論、口には出しませんよ。「可愛い」なんて言ってしまったら機嫌が悪くなるので。
「無心に食べてるけど、お腹空いてたの?」
……七緒くんの、笑顔でちょっと怒ってる顔に固まる私。
美味しいアップルパイと部屋の状況を観察する事で、貴方自身から意識を遠ざけていた。何でいつもはテーブル挟んで向かいなのに今日は隣なの!? と、馬鹿正直には言えません。
「うん。アップルパイ食べたの久しぶりだから」
「目、泳いでるよ?」
嘘は言っていないのです。が、本来の返すべき言葉とはかけ離れていたのでなんとも言い難い心境で目が揺らいでしまいましたか……。
「俺、なんか文月の気に触る事でもした?」
「してない!」
咄嗟に開けてしまった口に『やらかした』という字面が頭の中を過ぎりましたが、たぶん八重歯は見えなかったのでしょう。彼の表情に変化がありません。あった方が良かったな、なんて……天邪鬼な事を思ってしまうくらいに。
普段の、男の子なのに綺麗で優しげで、ほんの少し子供っぽさの抜けてない表情じゃ無い。不安と、苛つきの混じった冷たい表情。
そんな表情、させたくないのに。
「でも、避けてるよね?」
七緒くんが膝立ちになって、思わず距離を開けようとした私の二の腕を掴みました。心臓が、血液を循環させる速度をバクバク上げます。それに比例するよう強くなる甘い香り。
鼻と口を自由に出来る方の手で覆いました。
「手ェ退けて」
七緒くんが言っているのは私が口元を隠した片手の事です。ですが、ソレは私の台詞です。何故なら彼は、私の二の腕から手を離していないのですから。
「文月……」
私は目を見開いて固まっていました。
段々と七緒くんとの距離が近くなる事。金縛りのように身動きが取れない事。
「え? あの……」と。何も言えないうちに、唇がほんの一秒だけ額へと触れました。
「――――ッ!?」
唐突な彼の行動への驚愕。キスされた事への羞恥。脈絡が掴めず困惑。……そして、とてつもない空腹感。
待って、ダメ。最後の空腹感アウト。
「このまま抵抗無し?」
お祖父さん譲りだと教えられた彼の榛色の瞳と、私の黒い瞳が、コツンと小さな音を立てたように思いました。
あぅ……ダメ、ダメです <美味しそう>。
「次、唇にしたいんだけどなー」
細められた目に気を <美味しそう> 取られていたせいか、トンと、私は自分の背中を床とくっつける羽目に。
次いで、唖然としている間に七緒くんの手が <美味しそう> 私の顔のすぐ横に疲れていました。
今、私の体も顔も、七緒くんの下に有り <美味しそう> ます。
ものすごく <美味しそう> ピンチです。
普通の女の子が思い浮かべるような、貞操的な意味では無くて <美味しそう、美味しそう、美味しそう> 甘い匂いに、まともな思考回路が崩壊の <美味しそう、美味しそう> 兆しを見せていま…… <美味しそう>
ドクン、ドクン、ドクン――――ブツン。
糸が切れる音。
いいえ。それは、私が彼の頭と背中に腕を回し、ぐんと近づいた首筋に立てた牙が、皮に穴を開ける音でした。