2.霜月の姫(2)
「・・・旦那様、よろしいのですか?」
「何がだ」
「お嬢様を・・あれほど外界に出ることを禁じていらしたのに、あのどこの誰とも知れぬ者たちと共にお出しになって」
霜月伯爵は墨を磨っていた手を止め、疲れたように下女を顧みた。
「・・仕方あるまい。あれももう、逢瀬を知らずに生きられる年でもない。このまま屋敷に閉じ込め続ければ、いつ、昔のように屋敷を抜け出しかねんし・・・。ならば、早いか遅いかの違いであろう」
「しかし・・姫様は――」
流れてきた風に煽られ、ぱさりと半紙が畳の上に落ちる。
伯爵は青銅造りの水盤を手元に引き寄せると、一滴、その中に墨を滴らせた。墨は水を濁らせ、やがて水面に遥か遠くの風景を映し出した。そこにあったのは二人の年若い青年と、愛娘の仮像。彼女は、今まで見た事も無いような笑顔を浮かべてきた。
「・・・私が今までしてきた愚行は、総てあの子の為には仕方ないことだと思っていた。しかしよくよく考えれば、それは単にあの子の持って生まれた翼を封じ、鎖で繋ぎ止めることに過ぎなかったのかも知れない・・」
水の中の少女は活き活きと、幸せそうに微笑む。こうしてあるべきものがあるべき姿に戻ることは当然なのであろう。彼女は本来、誰よりも“自由”な子供である筈だったのだから。
「・・それに、私には解るのだ。――何れ来たる宿命が近いことを」
「旦那様、それは!」
「良いのだ。今更恐れることでもあるまい」
すっと腕を上げ、何かを見定めるように虚空を振り仰ぐ。そして何も無い場所に向けて鋭く手を伸ばす。そこには、黒い昆虫のようなものが掴み取られていた。ある程度の階級にある魔を扱うものが放つ眷族――つまり使い魔である。
「もう時間は限られている・・・。だが、奴らの好きにはさせんさ」
伯爵が軽く力を込めると、虫は小さな悲鳴を上げて霧散した。
彼は立ち上がり、指を独特な形に組む。途端に、今まで机の上に積み重なっていた半紙たちは意思を持ったように舞い上がり、空へと昇っていった。
「・・・光秀様・・」
下女は彼を心配そうに見据えた。しかし、彼女の思いを知ってか知らずか、どこまでも落ち着き払った様子でその人は語った。
「あの子は、世の穢れを知らぬ。それゆえ幼い。しかし――決して、全てを諦め捨ててしまうような弱い魂を持った人間ではない」
ピィンと人差し指で中指を弾いて印を切ると、空に向かった紙はある高度で燃え上がり、五方陣を築いて消える。
霜月伯爵は息を吐き、「それに」と言葉を付け足した。
「案ずるな。あの者たちが何者か、など気にする必要もないことなのだ。そう・・彼らはいずれ、凛を護らずにはいられなくなろう――」
***
ぴょん、ぴょん、とてっ。
テーブルの上で、人形が踊る。一枚の紙から出来た、まるで生きているみたいな、世にも奇妙な人形が。
「・・・ほえー、これが『方術』か」
レノは感心したように凛を見下ろす。凛は「えへへ」と照れたように頬を掻き、同時に紙人形も同じ仕草をした。
「そういえば、お父さまは方術の達人だったもんね」
すると彼女はちょっとだけ複雑そうに、首を左右に振った。
「違う。昔友達に教えてもらったの」
「お友達?」
「うん・・・。私才能無いみたいで、何度頼んでもお父さまはお遊び程度の方術しか許してくださらなかったわ」
「・・そうだったんだ」
ちょっとまずったかなと思いながら、同時にレノは「おや?」と疑問を抱いた。だって友達と言ったって、あの屋敷に彼女と同じぐらいの年頃の人間はいなかったから。
まあ、各家庭いろいろあるだろうから、あまり込み入ったことは聞かないでおく。
「・・・ねえ、それで『べんりや』って一体何をしてるの?」
「んー・・・・・別名・何でも屋、かな」
「何でも屋?」
「そ。浮気調査から・・まあ、汚れた仕事まで。でも気難しい人が此処に居てねー・・・」
さりげなく雅を槍玉に挙げると、彼は我関せずで明後日の方角を向いていた。でもこういう場合絶対聞こえているんだ。
「楽しそうね。いいなあ・・・」
ぱくり。
一瞬、彼女を注視する相棒。
「じゃあ、リンちゃんも今度遊びにおいでよ、ウチの事務所に」
「いいの!?」
ぱっくん、ごくん。
そこで、とうとう我慢できなくなったのか、ついに雅様が会話の中に入ってきた。それはなぜなのか、と言うと・・・。
「お前・・よく食べるな」
もぐもぐ、もぐもぐ。通産四個めのハンバーガーである。このちっちゃい身体の何処にそんな胃袋があるんだろうか。しかも、サイズがLだからまた驚きだ。
しかし当の本人はキョトンとしていて。
「そうなのかな?」
「そういうところは突っ込んじゃ駄目だよ、ミヤビ」
これじゃ、ポテトもMサイズじゃ足りないだろうな。そう思ったが際限が無くなりそうなので追加注文するのは止めておく。いや、経費はシモツキ家持ちだから別にいいのだけれど。でも流石にそのお命を預かっている以上、高血圧で倒れさせるのはイタダケナイ。
レノはとっさに話を逸らすため、とってもいいお兄さんの顔で彼女に話しかけた。
「そうだリンちゃん、これから何したい?」
「遊園地!」
間髪入れない返答だったが、そこで更にまた間髪入れずに雅が突っ込んだ。
「今からかよ」
ちなみに、只今午後五時半過ぎ。早めの夕食の最中であった。
黒いお兄さんの薄情な一言に頬をふくらませた凛だが、すぐそれはいつものうるうるお願いモードになった。
「じゃあ今度でもいい。・・・連れてってくれる?」
「いいよ。お父様の許可が出たらね」
「やったあ!」
無邪気にピョンと跳ね、彼女は通産六つめとなるハンバーガーを平らげた。
一個一個、決して小さくは無いのに、肉と野菜とパンは桃色の唇の中に消えていく。
隣の席の人が、点になった眼でそれを見つめていた。
店から出て、茜色に染まった空を望みながら、凛は独り言のように言った。
「お父さまから聞いたけれど、貴方達って強いんでしょう?」
向けられる無邪気な表情は先ほどと何ら変わらない。口元は人懐っこく綻んでいる。ただ双眸だけが――その黒曜石の瞳が、真剣な色で「お付き」の二人を貫いていた。
彼女の様子が一寸前と違うことに気付き、レノもまた、多少真剣に尋ね返した。
「なんで、そんなことを?」
「強いの?強くないの?」
「・・・そこそこ強いよ。多分ね」
すると少女はふっと力が抜けたように笑った。
レノは少し驚いた。ああこの子は、こういう顔もするんだ――って。
「じゃあ・・・大丈夫だね」
「え?」
「ううん、なんでもない」
その刹那、彼女が浮かべたそれは明らかに作り笑いだった。
それは天真爛漫なその子には似合わないほどの、何かを悟ったような、諦めたような、そんな悲しい形相だった。