5.ひらりひらり(2)
ひらり。蝶が舞う。
蝶は火の廻りを舞い遊び、そして火の中に飛び込む。美しい翅は黒ずみ、やがて燃え尽きそこには何も無くなる。
それでも蝶は炎に近付く。その揺らめく光に魅せられたように。
ひらりひらり。飛んで舞って、燃え尽きる。それでも蝶は飛ぶ。
とても美しく。
とてもとても、かなしく。
かなしく。
「――どうして・・・」
少女は立ちすくみ、ただぼう然とその光景を見つめた。
虫の知らせがして舞い戻った屋敷は焼け野原――否、もっと酷な状況になっていた。それが、果たして朝出て行った場所と同じか疑わしいほどに。
消し炭となり、骨格だけを残した建物。むせ返るような死臭。そこかしこに転がった屍。焼け焦げたそれらは一度見ただけでは誰かは判別がつかないが――うっすらと見える黒焦げの布は、何処と無く見覚えのある着物の生地ばかりであった。
「・・っ万理!志乃!」
駆け寄ろうとする凛を雅が引き止めた。強すぎるほどの力で。
凛は逃れようともがき、叫ぶ。
「放して!」
「駄目だ。これ以上、見るな・・!」
「いや、放して!お願いっ・・・」
無論、子供と大人の力の差など歴然としている。
なおも暫く暴れ、やがて諦めたように凛は力なく雅に縋りついた。恐怖と絶望で嗚咽を漏らしながら。
雅はそれを抱きとめ、唾棄すべき景色を苦々しく見回す。
「一体、これは・・・」
「解らない・・ただ、この夥しい血と魔物の気配は・・・・・」
「ああ・・・」
レノは事切れた屍体の一つに近付き――それがいつかのあの女中であることに気付き、目をそむけた。
『――お嬢様はあなた方を慕っていらっしゃいます。とても、とても』
この屋敷に何が起きたか、は解る。魔力の痕跡、血の海。恐らくレノたちが出掛けてから程なく、この霜月の屋敷は相当数の妖魔の襲撃を受けたのであろう。
「・・・っ」
――心のどこかでは解っていた。
なのになぜ、それを捨て置いてしまったのか。
「・・おとう・・さま・・・?」
凛は雅の腹に押し当てていた顔を上げ、何かに呼ばれたかの如く、未だ見つかっていない父の姿を求めてがれきの中を走り出した。
「お父さま、何処!?」
「凛!」
雅は舌打ちをし、凛の体を危害から護るように焔で包んだ。あの黒い焔は雅が燃焼させる意志のあるものしか燃やさない。
凛は殆ど全壊した屋敷の中を疾走し、そしてある所で立ち止まって息を呑んだ。
「―――っお父さまッ!!」
その人物は倒れてきた柱の下敷きになり、動かなかった。
「お父さま!お父さま!」
柱を退かそうと駆け寄った凛を止め、雅はそれらを刀で細切れにする。するとその体はもぞりと動いた。
そのことに刹那胸を撫で下ろした雅であったが、すぐ、その人を覆い隠していたものを無くしたことを後悔した。
「――お父さま・・足が・・・っ」
霜月伯爵は最早、下半身の大半を失っていた。たっぷりと、滴るほどに血を吸った畳。
レノは口に手を当てて咽び出す凛を抱え込み、意識を失ったその人の額に術を掛けた。こちら側に呼び戻すきっかけを。
「う・・・」
「伯爵、確りしてください。伯爵!」
小さくうめき声を上げ、伯爵はゆっくりと瞼を開けた。ほっとしたようにへたりこむ凛。
ぼやけた視界の中に愛娘の姿を見出して、伯爵は心穏やかな表情をした。
「無事・・だったか・・・・凛・・・」
「はい・・はい、お父さま・・っ」
少女は父親に抱きつき、すすり泣く。
伯爵は凛の傍に立っている二人の青年を見つめ、満足げに笑いかけた。
「娘を・・護ってくれたようだな・・・・・礼を言う」
「・・伯爵、一体、シモツキの屋敷に何が・・・」
「見ての通り・・・こういうことだ」
こういう――つまり“奴等”の手によって、地獄がつくられ、総てが蹂躙されたということ。館も、血族も、何もかも。
そのとき、レノの脳裏をあのときの妖魔の意味深な言葉が過った。
『至上目的は果たした、って。だから、とっとと還ろう。――だってもういつでも殺せるだろう?』
それはこういうことだったのだ。
伯爵さえ――その一番の護り手さえ消せば、いつでも彼女をその手に落とせるという。
レノは拳を握り締め、叫んだ。
「――っ何故!結界を解かれなかったのです!そうすれば・・・・・」
その先は言えなかった。アレがあったからこそ、レノと雅は何も気付かなかった。
しかし、仮に結界により内外の次元が遮断されず、二人が異形の気配に気付いていれたとして――そうすれば、一体どうなっていたというのか。伯爵は全て解っていて凛を逃がしたのに。自分たちに、否、レノ自身に何かが変えられたのか。
「・・わたしの、せいなの・・・?」
会話に耳を傾けていた凛は苦しげに、そして自虐的に呟いた。
「これも・・・わたしのせいなのね・・・」
翼の力。闇の眷属たちに狙われる厄介な力さえなければ、こんなことは起こらなかっただろう。
だとしても、それは決して彼女の非ではない。だが下手に気休めを言えば逆に凛を傷つけてしまうような気がして、慰めの言葉一つかけてやることが出来なかった。
そんな中、ただ伯爵だけが困ったように娘を諭した。
「凛。そうやって卑屈になるのは止めなさい」
「卑屈になんてなってない!わたしはっ」
「お前には、なんの咎も無い。霜月家が滅びることは・・・昔から予言で決められていたことだったのだ・・」
そろそろ支えるのが辛くなったのか、伯爵は寄り添っていた凛をもう一度立ち上がらせた。もう出るものは出尽くしてしまったのか、引き裂かれた両腿から流れる血も僅かだった。
雅は凛にそれを気取られないよう、自分が障害物となって彼女の視野を狭めた。
「・・・お前の翼のことを、話さねばならない時が来たようだな・・」
「私の、翼・・?」
「ああ。・・・その輪廻は、もう長い話になる」
凛は雅の服を無意識に握り締め、自分の背に触れた。不安になったのだろう、かたかたと小刻みに震えた。
その人は一度大きく深呼吸し、痛ましく咳き込みながら語り始めた。
「・・・・今から千年以上前のことだ。人界と歪界の境界が曖昧だった頃、一度ヒト種族が滅びかけたことがあった。そう、かの有名な『大堕天』と呼ばれるものの出現によって」
「大堕天・・って、あの、おとぎ話に出てくる?」
「そう。あれは実在したものなのだ」
大堕天――。骨の髄が疼き、ちりりと得体の知れない何かが燃え滾る。レノはその単語に顔をしかめながら、横から話を補った。
「――一般には魔の者達を統べる存在とされているものだよ。でも、おとぎ話の大堕天は・・まるまんま『魔王さま』って感じの悪者だけれど・・・・・現実には違う。あれは本来人間が生み出した存在だといわれているんだ。かつての世界的な戦乱期に、計り知れない人間たちの悲哀や憎悪が生み出した、負の意識の賜物。それゆえに、当時の人々は抗う術も無く、それにあっというまに呑みこまれてしまった」
伯爵は「ああ、そうだ」と頷いた。凛が「レノ・・・?」と不思議そうに見つめてきたが、伯爵に促され、レノは構わず続けた。
「強大な旗頭の出現に魔族たちは活気付き、それを利用して、かねてから邪魔だった人間たちを喰い尽くそうとした。それで数多の犠牲が出たが・・何処の時代でも同じだね、その状況を何とかしようとする、まあいわゆるヒーローが登場したわけだ」
「それってもしかして、おとぎ話の『勇者アドルノ』の、アドルノ?」
「ああ、アドルノもその一員だったといわれているね。だが正確には、大堕天に立ち向かったのは十二人の優秀な賢者達だと言われている」
「十二人も・・・」
そこで凛は考え込んだ。
だとしても、そのおとぎ話の真実とこの翼に何の関係があるのか、と。
これからは憶測にしか過ぎないので何も言わず、またレノは伯爵に視線を向けた。伯爵は噎せ込みながら、息も絶え絶えの状態で言った。
「・・・その賢者たちの活躍により・・妖魔たちは元居た場所に押し返され、そして大堕天もまた膝を突いた。しかし彼らの力をもってしても、自分たちと同じ、ヒトから生まれたものを完璧に滅し去ることはかなわなかった。故に彼らは大堕天をその命をもって未来永劫封じることにしたのだ。・・・・彼らと同じ数、十二箇所の部位に分けて」
「・・・」
「以来、それぞれの賢者の末裔たちはその封印を護る義務を追うこととなった。そしてその封印を受け継ぐ者達が、血族の中から巡り巡って生まれていくという。・・・そう、体にその証である刻印を持った、な」
凛は信じられない、信じたくないとでも言うように唇を戦慄かせ、両手で自分の肩を抱きしめた。
「ッでは・・・では、わたしは・・・」
その命をもって、この世に地獄をもたらす大凶を封じる人柱だということ。それこそが、彼女のその小さな痩躯の中にあった秘密。
ゆえに「大堕天」の再臨を望む妖魔たちがどうしても欲しがる楔。
――まただからこそ、ヒトの側に立つ者がどうしても護らねばならない存在なのだ。
「・・・我らの先祖が血に封印を施した“翼”の力は、文字通り転移の魔力。たとえどれほど隔たれた空間であろうとも、何の代償もなく一瞬で直結させることができる。これは・・・ある意味では、どんな刃よりも脅威となる力であろう。先祖は各国に散り、長い間名を変え立場を変え封印を守り続けたが・・・奴等は躍起になってお前を探し・・・そして遂に、見つけてしまった」
伯爵は硬直を始めた筋肉を無理矢理動かし、凛の方へ腕を伸ばす。凛もまたその人の手をとり、縋りついた。その人は愛娘の涙をすくい上げ、感傷的に笑った。
「今まで・・何も言わないでいて、すまなかったな、凛。本来・・・お前は誰より、自由に生きることの出来る子供のはずだったのに・・・私は、ずっとお前を閉じ込め、孤独に・・・・っ」
がほりと、伯爵は大きな黒い血の塊を吐き出した。
凛は青ざめ、「お父さま!」と彼を揺する。その体があまりに冷たいことを知り――凛は愕然としてレノたちを振り返った。
「レノ、雅、・・・お願い、お父さまを助けて・・!」
「・・・」
「お願いよ・・っ!!」
爪が食い込んで傷になるほど拳を握り締め、レノはかぶりを振る。少女は目を見開きレノに詰め寄った。
「どうして・・・!」
「無理、なんだ」
「何が、無理なの・・?レノならできるでしょう?お父さまは、お父さまは・・・っ」
炎の中で響く悲痛な声。
止めなさい、とその人は静かに彼女を咎めた。
「駄目だ、凛。お二人を困らせることはしない約束だろう・・?」
「でも、でも・・っ」
「彼の言った通り、無駄なのだ。・・・・・私の肉体は既に死んでいる」
「―――」
あのとき――レノがその額に触れたとき、霜月伯爵はすでに手遅れだった。その線はもう向こう側に引かれていた。だからレノはせめてと、逝きかけていた精神をこちら側に引き止めた。それは、人の宿星を曲げる、取り返しがつかないほど危険な行為であったのだけれど。
「嫌・・・そんなの、嘘・・・っ」
「凛」
「嘘よっ・・・!」
だって喋っているのに。このヒトは此処に居るのに、もう死んでいる、なんて。
どうして、そんな残酷なことが。そんなことが許されるのだろうか。
「・・言っただろう。我が一族が滅びることは、過去の預言で決まっていたことなのだ。だから、」
「だから、受け入れろというのっ?お父さまは、何も悪いことなんかしていないのにっ!」
彼女の悲しい叫びに、伯爵は自虐に満ちた面持ちをした。
「これはきっと・・・お前を幸せにするという・・・お前の母さんとの、約束を守れなかったツケだな・・・」
レノは音が鳴るほど臼歯を噛み締め、もう見ていられないと顔を背けた。解っていながら、何も出来ない。人外の力を持つはずの魔術師が、ああ、何故こうも大事な時に無力なのだろう。
「さあ、もう行きなさい。ここは危ない」
「いや。わたしもお父さまや皆と共にゆく!」
「駄目だ。お前は生きるんだ。生きて幸せにおなり。そのために、生まれてきたんだから」
炎がこの部屋まで広がってくる。だが黒い焔が周囲を覆い、熱さを感じることは無い。それでもやはり危険なことには変わらず、ずっと此処に居残ることは出来ないだろう。
そのときが、近付いている。
彼はもう視力も残っていない瞳で少女を見澄まし、優しく、愛しく、その名を呼んだ。
「りん・・・」
手を広げた。
「これからは心のままに・・自由に生きてゆきなさい」
その人は一度微笑み、少女を懐に招き入れた。
木霊する啼泣。凛は自分に科されたあまりにも過酷な運命を拒絶するように、激しく首を振る。けれど――無情な神は、時を止めてはくれない。
「幸せに、な・・」
少女の背中を摩っていた掌が、滑り落ちる。
訪れる冷たい静寂。
少女の慟哭が、天蓋を切り裂いた。