雨の中で泣いたのは
どうも婆です。また短編です。
今作は単体でもよろしいですが、一応下に記載する短編を先に読んでおくと一部分の話が少し繋がる、かもしれません。
『“知らば諸共”http://ncode.syosetu.com/n3203cn/』
縦書きPDFで読むと、良い感じになるかもしれません。
では、ごゆるりと。
ある、雨の日の帰り道。いつも通りに独りきりで歩いていると、少女が一人で泣いているのを見ました。雨傘の中に隠れながら、美しくも幼い顔を濡らして、とても痛ましく悲しそうに泣いていたのです。
何となくその少女が目に留まって、注意深く覗き込んでみると、どうにも誰かに似たような気がして、私はどうにも放って置けない気持ちになりました。なので、逡巡すらせず彼女に近づいて、「どうしたの?」と、しゃがみ込んで声をかけました。
嗚咽を漏らすその少女は、ただ首を横に振りました。それは、『気にするな』ということなのか。それは分かりません。でも何故か、珍しく放っておくことの出来なかった私は、とにかく、彼女を連れてすぐそばの屋根つきのベンチに腰かけました。
少しだけ間を置いて隣で泣く少女に、私は再び「どうしたの?」と声をかけました。彼女は依然、首を振るばかりでした。けれど、次第に彼女の嗚咽は弱まっていって、とうとう、雨の音よりも小さくなりました。
「わかんないの」
そして大粒の雨音に紛れ、少女のそんな言の葉が、ぽつりぽつりと降り出しました。
「みんな、なに思ってるのか、わかんなくなったの。イヤになりそうなの」
途切れ途切れに少女は内心を吐露します。彼女の年の頃は分かりませんが、多分、中学生ぐらいだと思われて、色々と思う所のある時期だと思います。
私にも、色々と、覚えがあります。
だから、人間関係に悩んでしまって、こうも苦しいのだと、私は勝手に憶測しました。もっと、酷い場合を私は知っていますが、流石に、そうではないだろうと勝手に決めつけました。そうであってくれるなと、勝手に決めつけました。
「分かんないんですか」
「うん」
「そうですか」
さて、どう言うべきなのでしょうか。多感な時期の彼女に、迂闊に変なことを教えてしまいたくありません。出来うる限り、しっかり、筋道を立てて答えてあげたいですが、生憎と、彼女を取り巻く状況がよく分からないので、立てようにも立てられません。
「お姉さんは、思わない?」
私が少しだけ思い悩んでいると、彼女は不安げに問いました。その姿は彼女はまるで子犬のようで、今にも縋りついてきそうな目で、私を見つめてきました。ゆらゆらと揺れる彼女の瞳に、溢れそうなほど涙が溜まっています。
私は、その涙をそっと拭ってあげながら。
「私も、分かんないと思います」
そうやって、小さく笑いました。
「やっぱり、そう?」
「うん、偶にですけど。私も思います」
それに驚いたような、拍子抜けしたような。そんな彼女の曖昧な表情は、初めて見る泣き顔以外の顔です。なんでか、ちょっとだけ嬉しくなりました。
「おねえ、さんは……わかる時が、あるの?」
“偶に”と言った私ですから、当然、少女はそう思うでしょう。私はしっかりと答えてあげます。
「当たり前の分だけは、ちゃんと分かるつもりです。貴方が、泣いてしまうほど悲しい思いをしてること、酷く苦しい思いをしてること、見ず知らずの私に縋りたくなるほど辛いこと。そのぐらいなら、ちゃんと分かります。それはちゃんと、見えてますから」
少女は、今更になってその腫れぼったくなった目を手で覆いました。恥ずかしそうに頬を赤らめて俯いた彼女の姿に、漸く、年相応の愛らしさが見えてきました。
私は彼女に、少しだけ待っているように言い残して、少し先にある自動販売機で飲み物を買いました。私の分と、少女の分。どちらも温かいミルクティーだったのですが、少女は問題なく受け取ってくれました。
再びベンチに腰かけて直ぐに、私は自分の分に口を付けたのですが、少女はすぐには開けないで、しばらくギュッと握っていました。
何か、悩んでいる様子でした。決心がつきそうで、つかないような、そんな様子でした。缶はまだ熱い筈なのに、それを強く握りしめ続けるほど、彼女の心の天秤は揺れているみたいでした。
私は、黙って待ちました。ちびちびと、ミルクティーを啜りながら、じっと、ずっと。その間、ちらちらと少女は私を覗き見ます。
ミルクティーが半分ほどなくなって、その熱も殆ど失われた頃合い。少女は、俯きながらも私に教えてくれました。
「……友達がね、死んじゃったんだ」
彼女の告白は、とても酷なものでした。
「一番、仲のいい子だったの」
その子は小学生の頃からの友人で、離ればなれになっても連絡を取り合って、時折一緒に遊びに出かけもしたらしいです。
けれどある日、ぱったりと連絡が無くなったと思ったら、その子は自殺してしまっていたらしいのです。
あまりにも、突然のことだったそうです。事件の数日前にも、楽しくおしゃべりをしたその子は、すっとこの世からいなくなってしまったそうなのです。
「ずっとずっと、辛い思いをしてたんだって。色んなところで。でも、私と会うときは、お話しするときはいっつも笑ってたの。楽しいなって、言ってたの。死んじゃう前も」
嗚呼、それがどれほど残酷かを、私は少しだけ知っています。知っているから、どうにか今、彼女がどれだけ辛いかがほんの少し分かりました。
「だから、分かんなくなっちゃったの。みんな、笑ってても、悲しいのかなって。悲しくても、笑ってるのかなって」
屋根のあるこの場所に、雨粒が一つ、二つ、三つ。
「ねえ、お姉さん。知ってたら、教えて。どうしたら、分かるようになるの? どうしたら、もうこんな風にならなくて済むの?」
声を震わせた少女の懇願に、私はそっと缶を置きました。カバンの中からハンカチを出して、それを彼女に差し出してあげました。
小さな声で『ごめんなさい』と、お礼を言った少女とは裏腹に、私は何も言えませんでした。だって、それは、私には分かりません。
しかし、それでも私は、何でもいいから、欠片でもいいから、答えを差し出してあげたいと思いました。差し出さなくてはと、思いました。
「どうしようもないです」
ぽかんと呆けた少女の瞳に、私がどう映ったのかは分かりません。自分では、見えませんから。でも、そっと少女の頭を撫でた私は、きっと困ったように笑っていたと、そう思います。
「……え?」
「それは、きっとどうしようもないことなんです」
絶句する少女に、私は申し訳なさを覚えながら、それでも私の言えることを言います。もしかしたら、彼女が本当に求めている物と違うのかもしれません。いえ、十中八九、違うでしょう。でも、私は私の言えることだけを言います。私が思ったことだけを伝えます。
「隠れてしまった心の奥。それを覗き見る術を、人は持ってないですから」
胸が痛みました。とても、とても。少女に突き付けるには、多分、最も残酷な結論です。でも、こうしないといけない。だって、じゃないと、待っている結末は、最悪に変わってしまいますから。
「私は、人の心の全てを知ることは、無理なんだと、ダメなんだと思ってます」
「な、なんで?」
「それは、私たちが人の心を知るためには、同じ目に遭わないとダメだからです。同じ目に遭っても、本当に全てを知ることは出来ないからです」
少女は納得いかなそうでした。だと思います。ハイそうですかと、引き下がるわけにはいかない筈です。
でも、それじゃダメなんです。私たちみたいな普通の人は、他者の心に身を粉にしてはいけないのですから。だから。
「……私の話を、してあげます」
「え?」
「私が大好きだった兄と、尊敬してやまなかった叔父の話です」
少女に話したのは、私が彼女と同じ頃の出来事。とても優秀で、周囲から将来を期待されていた兄が、その内に秘めた苦心をほぼ一切、誰にも打ち明けずに死んでいってしまったという出来事。そして唯一、彼の苦心を悟った心優しい叔父が、兄を含めた他者の心に己が身を粉にした挙句、同じように死んでいってしまった出来事。それらを纏めた、少しだけ長いお話でした。
……それらはもしかしたら、ありふれたような出来事なのかもしれないものです。けれど私にとって、とても残酷で悲しかった出来事です。
しかしきっと、私が当時に味わった虚しさや悲しさは、これを聞く他の人々には一割も理解できないと思っています。どれだけ仔細に話しても彼らには、『大変だったんだね』なんて、当り障りのない言葉で慰めることしかできないと思っています。
何故なら彼らの半数以上は同じ目にも、ないし同じくらい辛い目にも、遭ったことがないのですから。
でも、私の話を隣で黙って聞いてくれた少女は、彼らよりもずっと分かってくれると思います。全部とまでは言いません。ですが私の気持ちと、伝えたいことの半分ぐらいは、四分の一ぐらいは、きっと分かってくれるはずです。
「……お姉さんも、だったんだ」
「ええ、まあ」
「だから、私に話しかけたの?」
「多分、そうかもしれません。いえ、きっとそうなんでしょう」
雨の中で佇む少女に似ていたのは、大切な人を失くしたいつかの私だったのかもしれません。己の無力に苛まれる姿は、私の憧れた叔父の壊れかけの姿と少しだけ被ったのかもしれません。
どちらかは、分かりません。でも、どちらにしても私の心を引き付けました。同じ境遇ゆえの微かな共感性と、ほんの少しの運命の悪戯が、私たちを繋いだんだと思います。だから、私は。
「……他者の心の理解に完全はありえません。時に自身の思いすら惑う私たちが、他人の心の奥底を分かってあげるなんて不可能なんです。だから、私たちは当り障りのない感情や、味わったことのある多様な感情を物差しにした推測しか、分かることができないと思っています」
それが、私の出せた答えでした。あの時出せた、諦めのような答え。でも、これでいいと私は思っています。
じゃないと、人は潰れてしまいます。他人の心を知るせいで、自分の心が砕け散るのです。いえ、許容量を超えて破裂してしまうのでしょうか。分かりませんけど、どれにせよ人の心は、死んでしまうでしょう。
「もしもって、ことはないの? もしかしたら、分かってあげられるような、そんな人は、いないの?」
少女のその、苦し紛れにも似た疑問にも、やはり私は私なりの答えを持っていました。だから私は答えます。教えます。
「絶対いない、なんてことは言えません。ですが、もしもそんな人がいるなら、それは――」
――きっと、常人ではあり得ない、“優しさの狂人”であると私は思います。
厳かに、冷たく重く、私はそう言い放ちました。それっきりしばらく、彼女はしんと、黙りこみました。
雨は小雨に変わりつつあり、少しずつ、辺りも暗くなり始めていました。彼女が未だに握りしめるミルクティーは、すっかり冷え切ってしまっています。
そろそろ、帰らなければなりません。大学生になった私はまだ良いですけど、少女をこれ以上遅くに一人で帰すのは心許ないので、彼女を帰してあげなければいけません。
「お姉さん」
私がそれを促そうとすると前に、彼女の方から口を開きました。私は首を傾げることで返事として、彼女の言葉を待ちました。
「私、それでも、諦められないよ。少しでもいいから、助けになれたらって、やっぱり思うよ……」
『お姉さんもそうでしょう?』と、視線で訴えかけられて、私は顔を歪めました。物分かりが悪い、と呆れるような心境では、勿論ありません。
どこまでも、どこまでも、少女は似通って見える。そのことに泣きたくなりました。とても、とても、苦しくなって、私はひっそりと唇を噛みしめました。
「お姉さん」
膝に置いた私の両手を、ほんのり微かに温かい、少女の両手が包みました。私と彼女との間は既になく、とてもとても、近くになりました。
「分からないかもしれない。でも、そうやって分かろうとしなくなるのも、きっとダメだよ」
耳朶を叩いたその言葉は、私の胸を強く打ちました。
「それも、人をダメにする。その人とは違った、ダメな人を生んじゃう」
揺れた瞳は、どこにもありませんでした。唯々、彼女は私に対して真摯でした。泣きそうだった少女は、どこか必死になりながら私を繋ぎとめようとしていました。
「だから、お姉さん。こうしよう。私と一緒に、それ以外の道を探そう」
「……それ以外の道を?」
あるのでしょうか。そんなものが。それで、助けになれるのでしょうか。そこには疑問と不安しかありませんでした。もしその行く先で、あの人と同じ道を辿ってしまったらと思うと、怖くて仕方がありません。
彼女はそれが、怖くないのでしょうか? 私が話したことを、少しでも受け止めた彼女は、思わないのでしょうか?
問おうとして、私は気づきました。その手が、強く強く握られていることに。跡が付きそうになるぐらいしっかりと、握られていることに。
「私、一人じゃ多分出来ない。だから、お願い。お姉さん、手伝って。お願い」
少女からの、二度目の懇願でした。私は、何もできません。思ってもみなかったことに、固まってばかりでした。
ふと、私の脳裏に過ぎりました。
『一人でやらないと、いけないんです。僕が、独りで……』
私の必死の思いに、頑なにそう返した、あの人の言葉。
どうやら独りもまた、ダメ、みたいです。独りでいることが、独りでやることが、いつか綻びを生み出すのかもしれません。
もし、ここで、私が彼女の思いを無碍にしたら? きっと、彼女は独りでやるでしょう。そして、私の思いもまた無意味になるのでしょう。
あの人に似通っていた少女。私に似通っていく目の前の少女。彼女を、彼の様にしないために、私の様にはしないためにも、私は……。
「わかり、ました」
その一言を切っ掛けに、花開いた少女の笑顔。初めて見れたその表情に、私は、とても嬉しくなりました。
雨は、止んでいました。
最近、短編ばかり書いてるおばあさんです。
この話では、“知らば”でやや不鮮明なままだったような部分と、プラスαを書きました。書いたつもりです。
本当は別のことをテーマに書いていたのですが、いつの間にか“知らば”に繋がりそうな内容になってたので、急遽変更してこう相成りました。
雨の上がった後を書くかどうかは、分かりません。どこかで私が、私なりに答えを見つけたら書くかもしれません。
20150319_各箇所微修正(誤字、表現etc)