Ep1 ~ハルピュイアとの戦い~
彼女が俺に呼びかけた。俺が彼女のほうを向く。
「ニックス」
その可愛らしい顔をにこりと微笑ませていう。
「終わったよ」
かの大戦から数万年の月日が経ち、地上は人間に満ちていた。そして、今その名を呼ばれた少年のいる地はギリシャから見て北西のかなたにある、賑わった都市だ。ニックスと呼ばれた青年は片手に持っていたパンを彼女に手渡した。彼女は美味しそうにパンを頬張る。やれやれといった表情を浮かべながら青年が言った。
「しっかし、あの講師共は俗なことをしやがるなぁ。ハラが減っている女の子の状況も確認せずに説教とは」
「説教って。言い方が悪いよニックス。せっかく私たちの将来のことを考えてくれているんだから」
青年は教会の近くにあった時計をチラリと見て不機嫌そうな顔をした。
「でももう午後2時過ぎだ。確実に腹が鳴ってくる時間帯だ。どこか食べに行こ。寮の食事はまずい」
彼女も目をキラキラさせてうんうんと頷きながら「この前言ったところがいい」と言って腕を掴んだ。
青年は深く頷き、ゆっくりと歩き始めた。
彼の名は、ニックス・ホワイトハウス。農家の出身だ。だが、小さい頃から何かと博学で勤勉家でもあり、たまたま都心の上流貴族と中が深くなったのですんなりと名門の大学へ入学することがかなったのだ。容姿はとても良く、ストレートの黒髪に黒い目、高い鼻、スラっとした長身に平均的な筋肉をしており、小さい頃からそれなりにモテたのだった。彼女はジェニファー・オールコック。3年前にニックスに惚れ、そして過去を知った上で交際を続けて今に至っている。サファイアのように綺麗な目とサラサラとした金のブロンドが魅力的な女性だ。
熱いトマトスープを目一杯スプーンですくい、それを口に入れる。濃い味だった。
「ニックスは大学を出たらどうするの?」
ジェニファーの唐突な質問に戸惑った。
「そ・・・そうだな、農家でもやろうかな、気楽そうでいいかもな」
ニックスは冗談を言ったつもりだったが、彼女には通じなかった。
「相当気楽だよ。それじゃあ何のためにトマスさんにここまでしてもらったか分からなくなっちゃうじゃない」
ニックスは大口を開けてちぎった固いパンを放り込む。ジェニファーは続けた。
「父さんやトマスさんは私たちに期待してくれているのよ。本気で考えないと」
「かといっても俺には俗世は合わないしなぁ。まぁ、ゆっくり考えておくよ」
彼女がため息をついた。
「気楽ね」
彼らは学生寮に住んでいる。ニックスは学生寮が嫌いだった。もちろん同性の同級生と相部屋なのだがその匂いだどれも胸が苦しくなるようで嫌いだった。つまりはあまり人間との関わりを好まない。少年時代の忌まわしい記憶が影を落としているかどうかは誰にも分からないが。
「それじゃあね、ニックス」
学生寮の建物の前で二人は別れようとした。そしてバイバイと言いながら振り向こうとしたその瞬間、ジェニファーの後ろに大きな黒い影がうつり、迫ってきた。
危機を感じ、危ないと叫びながらジェニファーの後ろにまわり、彼女をかばった。次の瞬間、胸に大きな溝ができ、口から大量の血が吹き出た。目の前にいる生物を見たその時から、彼の運命はもう変えることができないものとなっていた。
「逃げるぞ!」
自然と声を出し、彼女の手を取り、駆け出していた。
角を右に曲がり、橋の上を通り、人の群れを押しのけて向かった先は行き止まりだった。
「流石にもう追いかけてこないだろう」
そういったのも束の間。地で染まった怪物は宙を飛んで来た。そのスピードは速く、人間が走って逃げるとなるとほとんど不可能だった。
怪物の赤い目が不気味に光り、グルルと猛獣のような声を発する。その外見が実に奇妙で、どう見ても人間の女としか思えない上半身に腕にはコウモリのような翼、下半身がそのままカラスのそれとなっていた。
この奇妙極まりない怪物をニックスは知っていた。かつて、襲われ、戦ったことがあったからだ。ニックスは憤怒と憎悪の混じった声で呟いた。
「どうして、俺の前から消え去ってくれないんだ・・・ハルピュイア・・・・・・!」
怪物はそんなの知るかという顔をして、ジリジリと数歩前に踏み出す。そして大きな爪でニックスを突いてきた。
「うおっ!」
咄嗟に避ける。するとハルピュイアの爪は後ろの壁に当たり、大人一人分の穴ができた。すぐ後ろの林へと逃げることができる穴だ。
「うおおお!」
ニックスはハルピュイアに掴みかかり、目を落ちていた木の棒で突き刺した。思わぬ反撃に対処できなかったハルピュイアは仰向けに倒れた。そのうえにニックスは乗り、そして叫んだ。
「ジェニファー!そこの穴から脱出するんだ!はやく!」
「でも・・・ニックス!」
「俺の事は心配するな!早くいけ!」
ちょうどジェニファーが穴を通った時、ニックスは振りほどかれた。
顔を足蹴りされてすっ飛び、地に伏した。
「俺は死ぬのかな」腹の傷の痛みが大きくなればなる程、意識が朦朧としてきた。
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