闘病履歴
これはノンフィクションの文学闘病履歴と言っても過言ではない。一億総鬱病化の時代に在って、真の華とは何かを世に問い掛けるアプローチとも言える。そしていかに生き抜くかの激烈なる戦記でもある。
自己同一性障害。
この病の意味を真華は考える。
だが考えるのは白の自分なのか、黒の自分なのか分からない。
そこに一つの錯乱がある。
白と黒の分岐点を明確にするべく、真華は息を吐き出した。
一つの心を共有する二つの心。
その存在理由は分からない。
ただ在るがままに在る。
それが何故在るのか、その問い掛けをしても答えは無い。
両者のダイアログはこうなる。
「私は白の真華よ。そして私は善でもあるし悪でもあるの」
その問い掛けに答える黒の真華が言う。
「俺は黒の真華だが、善にあらず、悪にあらず」
真華は一応女の性別を有しているが、二つの人格は雌雄同体となっている。
区別すれば黒は男で白は女だ。
恋人はいる。
白の真華はドMであり淫乱性なのだ。
だから恋人たる男は俗に言うヤリチン男のろくでなしなのだが、そのろくでなし男のペットに堕ちる事を白の真華は悦んでいるのだ。
主人にかしづく奴隷性である事に限りない喜悦を見出だしている。
その事実を他者から責められると、黒真華の陰に猫のごとく隠れてしまい出て来ない。
常識から逸脱している性癖をごまかすには自己同一性障害は絶好の隠れ蓑となっている。
だから。
己の心を一つの入れ物として、自己同一性障害を上手く使い分ければ、それはある種芸術とも言える現実逃避の道具としても使えるわけだ。
ヤリチン男が白真華に話し掛ける。
「お前の言っているタオの意味とやらが何となく分かったぜ」
真華は所謂タレントの卵で、芸術的なセンスもあり、各デザイン系の制作も手掛けている。
その交遊関係の中に拓郎君という大学生がいて、彼は柔道、気功をものし、タオの存在を周囲に紐解くように啓蒙している人物だ。
黒真華はこの自己同一性障害仲間でもある拓郎君のタオ理論に心酔、傾倒している旨を恋人たるヤリチン男に説いて、ヤリチン男がそれに同意を示したのだ。
真華が言う。
「分かってくれたんだ」
煙草を燻らしヤリチン男が頷き答える。
「まあ、何となくな」
ヤリチン男はビジュアル系のバンドマンで所謂カッコイイ系の男だ。
しかし。
白真華はタオ理論などどうでもよく、黒真華のこんな話しをほぼ無視、スルーしている。
と言うよりはヤリチン男が黒真華と話しするのさえ面白いとは思っていない節があり、ふて腐れてしまうのだ。
高尚なる事と低俗なる奴隷性が同一の身体の中でせめぎ合う絵模様。
それが真華という自己同一性障害者の魅力と言えよう。
人生は闘いである。
病んだ社会の中、ほぼ全員の人間が心病み、その病と闘いながら生きているのも確かと言えよう。
自殺して果てるのは簡単なのだ。
死はいつでも隣にあるのだ。
死なずにいかに生き抜くか?
激烈なる死との闘い。自分との闘い。
それが現代社会の見取り図と言っても過言ではない。
この物語りは真華という女子大生の闘病記、激烈なる人生との格闘履歴に他ならない。