第二一一話 入れ歯の覚悟
シーキャンサーより吐出された瘴気入りの泡。
その泡に囲まれたゼンカイとミャウは、抜け出すための策もみつからず途方にくれていた。
そんな中突如どこかから聞こえてきた声。それはゼンカイの愛用としていた入れ歯の一欠片。
そして今、ゼンカイの目の前で破壊された筈の入れ歯が、元の姿へと変貌をとげた。
だが――その姿は入れ歯というよりはあまりに大きく、まるで巨人の口に収める為にあるかのような巨大さであるのだが――。
「てか……デカイわね」
ミャウが思わず驚嘆の声を漏らす。
確かにデカい。既に入れ歯の域を超えている。
「本当に、お前なのか?」
『うん、そうだよお爺ちゃん』
ゼンカイの肩がプルプルと震える。どうやら感動の再会シーンといったところのようだが、絵面はあまりにカオスである。
「い、入れ歯ぁあぁあああ!」
「てかそこ名前入れ歯!?」
思わずミャウが突っ込みを入れる。それでこそミャウと言えるだろう。
『お爺ちゃ~~~~ん!』
そして入れ歯も駆け、というよりは飛び寄る。入れ歯は常に浮いて移動しているのだ。
と、すると。
パクン!
「きゃぁぁあお爺ちゃ~~~~ん!」
ミャウの猫耳が驚きのあまりピンッと逆だった。何せ目の前で、ゼンカイの上半身が入れ歯の口の中に収まったのだ。驚かない方がおかしい。
「むぅ暗いのじゃ? 突然暗くなったのじゃ~~!」
「いや! 食べられてるから! お爺ちゃん食べられてるから!」
脚をバタバタさせて喚くゼンカイに、ミャウが声を張り上げ教える。
すると入れ歯の口が開き、ゼンカイが開放された。
『ゴメンよ……腕がないことをすっかりわすれてたよ』
「問題そこ?」
申し訳無さそうに歯を下げる入れ歯。しかしゼンカイは笑って、気にするでない、と言い放ち。
「それにしても入れ歯……成長したのぅ」
「成長なのコレ!」
ミャウは突っ込みに余念がないのである。
「クッ、何やら妙なものを呼び出したようだが、何をしようが状況は変わらんぞ!」
ふとそこへ、シーキャンサーの声が割り込んでくる。
入れ歯の事に気づき若干の狼狽は感じられるが、それで何がかわるというわけでもないだろう、と強気な態度を崩さない。
『お爺ちゃん、僕はこうやってお爺ちゃんとお話が出来て凄く嬉しいんだ。お爺ちゃんは僕をとても大切にしてくれた――だから僕はお爺ちゃんの役に立ちたい!』
ゼンカイが潤んだ瞳で、入れ歯、と声を漏らすが、隣のミャウはなんといっていいか判らない微妙な表情だ。
『みてて! 僕がこの状況を打破してあげる!』
そして言うが早いか、入れ歯がくるりと振り返り、そしてその大口を広げた。
その瞬間、入れ歯がなんと周囲を囲む泡を物凄い勢いで吸引し始める。
「え? 嘘! 凄い!」
「ぬぉ! 凄いのじゃ! 流石わしの入れ歯なのじゃ!」
ミャウが驚愕に目を見開き、ゼンカイも喜びと感嘆の混じった声で叫びあげる。
そして入れ歯は、みるみるうちにふたりの周りの泡を全て吸い込み、そしてゴクリと飲み込んでしまった。
「ば、馬鹿な!? 瘴気混じりの泡を、の、飲み込んだだと!」
あまりの事に、シーキャンサーは半ば理解が出来ないといった様子だ。
顔を歪ませ、突然起きた誤算に冷静ではいられないようで。
『さぁお爺ちゃん僕に乗って。そして一気に勝負を決めよう!』
入れ歯の誘いをゼンカイは断る理由がない。颯爽と薄紅色の本体に飛び乗り、ノリノリでいけ! 入れ歯ぁあぁあ! と気分は筋斗雲にのる孫悟空といったところである。
「お、お爺ちゃん?」
「ミャウちゃん、ここはわしと入れ歯で活路を開くのじゃ! 任せておけなのじゃ!」
ミャウはその表情に若干の不安を滲ませるも、現状一番この状況を打破できる確率が高いのが、ゼンカイの蘇った入れ歯であるのは確かであり。
「判ったわ! 任せたわよお爺ちゃん!」
ミャウの声援に応えるように右手を突き上げ、そしてゼンカイと入れ歯のコンビは泡の壁へと突き進む。
「くっ! くそっ! こんな! こんな馬鹿な! え~いだったらもっと! もっと泡だ!」
ゼンカイの入れ歯は即効で多量の泡の前に辿り着き、そして口を大きく広げ、泡を再び吸い込み始める。
「おお! 凄いのじゃ! 吸引力ナンバーワンなのじゃ!」
入れ歯の上ではゼンカイが燥ぎ妙な踊りさえ披露し始めてる程だ。
だが――シーキャンサーも黙って引き下がれないと、下半身から更に大量の泡を生み出し、吸い込まれた先からドンドンと補充していく。
「むぅしぶといやつなのじゃ! え~い負けるな入れ歯ちゃん!」
『う、ん。お爺ちゃ、ん。ぼ、く、がんば、る』
「……入れ歯、ちゃん?」
気のせいかゼンカイの乗る入れ歯に元気がなくなってる気がする。
だがそれでも入れ歯は必死に泡を吸い込み続ける。
だが吸込めば吸い込むほど、入れ歯の動きがふらふらになっていく。
それをゼンカイは見逃さず。
「入れ歯ちゃんもしかして無理してるのでないかい? キツイんじゃったら――」
『だ、大丈夫! ぼ、くは、お爺ちゃんの為にだったら、こ、これぐらい!』
すると入れ歯はぴたりと空中で止まり、更に大きく息を吸い込んだ。
「い、入れ歯ちゃん?」
『う、うぉおおおぉおお!』
まだだ! どんどん吐きだせ! と命じるように声を張り上げるシーキャンサー。
そして蟹の口からは更に大量の泡――しかしそれも全て入れ歯に吸い上げられ。
そして――ついに蟹の口からは一滴の泡も噴出されなくなった。
「やったのじゃ入れ歯ちゃん! 泡切れじゃ! 相手は泡切れなのじゃ!」
『う、ん、僕、お爺ちゃんの為――』
しかし、同時に入れ歯もふと力が抜けたように浮遊感をなくし、そのまま地面に落下していく。
ずしゃ! と入れ歯と共に地面に落ちるゼンカイ。だが入れ歯がクッションになってくれた為ゼンカイにダメージはない。
しかし入れ歯は息も荒く、かなり弱っている様子だ。
「入れ歯ちゃん! この、無茶しおってばかちんが!」
『お爺ちゃ、ん』
「入れ歯ちゃん、でもありがとうのう。おかげで助かったわい。だから! 後はそこでみておれ! な~に泡が出ない蟹など所詮ただの」
「舐めるんじゃねぇええぇええ!」
と、そこへシーキャンサーの絶叫が轟く。
全く往生際の悪いやつじゃ、とゼンカイがシーキャンサーを振り返るが、そこで表情が凍りついた。
「ざけやがって! 何が入れ歯だ! そんなふざけた物で、ふざけた物でぇえぇえええ!」
怒りと悔しさの入り乱れた顔で咆哮するシーキャンサー。その巨大な鋏が二本、ゼンカイを含めた全員をターゲットにするよう差し向けられていた。
そして鋏には闇のオーラが纏わりつき、まさしくいま何かが発射される寸前であった。
「こうなったらもう精霊神のことだってどうでもいい! 知った事か! てめぇら全員この力で消し飛ばしてやる!」
「くっ! トチ狂ったか!」
ゼンカイが強く強く歯噛みしながら語気を荒くし、相手を睨めつける。
だがその顔に宿る狂気は本物で、その技が後先考えずに生み出されたものである事は間違いがない。
「お爺ちゃん!」
ゼンカイの背後からミャウの叫び声が届き、駆ける足音が近づいてくる。
だがミャウが来る前に、シーキャンサーの鋏から邪悪で強大な漆黒の光線が発射された。
地面を削り、洞窟中を震わせながら、その光線がいままさにゼンカイを飲み込もうとしたその時――。
『お爺ちゃんは僕が守る!』
なんと、入れ歯が最後の力を振り絞り、ゼンカイを庇うように光線の前にその身を晒し、そして己を盾としてゼンカイを守ったのである。
「い、入れ歯ぁああぁあ!」
「そ、そんな、ば、馬鹿な、私の渾身の一撃が、あ、あんなふざけたもんに――」
「ふざけたものじゃと!」
完全に破損し横たわる入れ歯を憂いの表情で見ていたゼンカイが、我慢ができんと言わんばかりに声を張り上げ、憤怒の表情でシーキャンサーを振り返った。
その顔はこれまでにみせたことのないような、そうまさしく鬼の形相であり、その迫力に思わずシーキャンサーも後ずさりを始めるが――。
「あなたお爺ちゃんを本気で怒らせたわね」
ミャウの声が後に続く。そしてゼンカイは得物の柄に手をかけ、その脚で一歩また一歩とシーキャンサーに近づいていき。
「ま、待て! わかった! 私が悪かった! だからもう――」
「貴様は死んで、わしの、入れ歯に、詫びるのじゃ! 千抜き・烈!」
その抜刀は遠目からとはいえミャウにも全く刃の軌道が見えないほど速く――そして……。
「ぎ、ぎゃぁあぁあああぁ!」
瞬きしてる間にシーキャンサーの身を甲羅ごと微塵に斬り刻むほど、鋭かったという――。




