3.盗まれた罪人
「作戦を変えましょう」
滅多に表情を変えないと見えるレリカだが先程の敗北はやはり不愉快なようで、若干眉をひそめながらそう提案してきた。
「悪夢の持ち主の心を開かせるには、その原因を突き止めることが肝心だわ」
もちろんディーターに否やはない。マーレの命を救うには、それしか方法がないのだ。
「夢魔は夢の中で人間に取引を持ちかけるの。対価を払うことで、願いを叶えてやると。彼女が悪夢を見るようになった原因や、夢魔に何を願ったかがわかればいいのだけれど」
「姉さんの、願い事……」
願いと言えば聞こえはいいが、要は欲望であり妄執。それも悪魔の手を借りねば実現できぬ、叶わない、願い。
薄暗くもどこか悲しい響きのそれに、ディーターは少しだけ心当たりがある。
「……でも、姉さんは俺の前では何かに悩んでいる様子は見せなかった」
「……そうね。大事な相手だからって、全てを言えるとは限らないものね」
慰めると言う風でもなく妙に実感をこめてレリカは言う。
「悪夢を見る原因と、その夢の主が夢魔にする願い事は十中八九関連がある。あなたが知らないのなら、他の人にも聞いてみましょう」
弟であるディーター以外でマーレを最もよく知る者。それは彼女の婚約者であるゼーフェリンク商会の跡取り息子、スヴェン・ゼーフェリンクだろう。バルドゥインも婚約について思わせぶりなことを言っていた。
マーレの夢から強制的に追い出されたディーターは、現実では喋れないレリカと彼女の代わりに彼女の声で喋る生物テイパーを連れて、ゼーフェリンク商会本店へと向かった。
ゼーフェリンク商会はディーターにとってもマーレにとっても雇い主だ。この街にゼーフェリンク家の屋敷があり、本店もそこにある。その屋敷で使用人として雇われていたのがマーレ、店の方で雑用をする下働きとして雇われていたのがディーターだ。
マーレは普段からゼーフェリンク家の人々の世話をするメイドとして働いていた。スヴェンと婚約したのもその縁だ。
ゼーフェリンク家は国内でも有数の商家だがその身分は貴族ではないし、金に任せて貴族の爵位を買うようなこともしていない。だから庶民でメイドのマーレと御曹司のスヴェンの結婚にも身分差のような障害はなかった。
――表向きは。
「え? 噂?」
「そうよ。マーレちゃんの親がその……人に言えないようなことをした人だって」
日中のこの時間であれば店の方にいるだろうスヴェンを訪ねるため、久々に自分自身の職場でもあるそこに顔を出したディーターが聞かされたのは、マーレに悪い噂が立っているという女中頭の話だった。
詳しく話を聞く前にスヴェンの方で準備ができたと聞かされたディーターは、普段の彼は入り込むことのない店の奥の奥――彼らが使う使用人控室ではない、店の重役専用の仕事部屋へと通された。
何冊もの帳簿に埋もれる机の向こうに、マーレの婚約者である青年がいた。ありふれた淡い茶の髪と瞳を持つ地味な容貌のスヴェンだが、細められたその眼には常に理知的で穏やかな光が宿っている。
マーレは金の髪に海のような碧い瞳を持つ美女なので、口さがない者たちは資産や地位とは別の意味で釣り合わない恋人たちだと噂しているのをディーターも知っていた。けれどディーターはいずれ義兄になる予定のこの青年が好きだった。彼ほど真摯に誠実に姉を大切にしてくれる人間はいないと思っている。
「やぁ、ディーター。どうしたんだい? この時間に店に来るなんて珍しいね」
一通り挨拶を交わした後、スヴェンは顔を曇らせた。
「まさか……マーレに何かあったのかい?」
「いえ――」
「その通りだ、商人殿」
反射的に否定の言葉を返しかけたディーターの台詞を、レリカ……ではなく、テイパーの声が遮る。目の前の少女の閉じた口ではなくどこか別の場所から聞こえてきたその言葉に、スヴェンがきょとんと目を丸くする。
「今のは……君かい? ディーターのお友達かな? いや、それよりもマーレに何が……」
「あ、あの!」
困惑しながらもレリカを見つめたスヴェンの様子に、これ以上レリカもといテイパーに喋らせては面倒なことになると、ディーターは口を挟んだ。
「こ、この子は遠くから姉さんを診に来てくれたお医者様の助手で、姉さんが起きないのは精神的なものの可能性もあるから話を聞いて来いと!」
「そうなのかい?」
レリカの格好はどう見ても医者見習いとは思えないし、スヴェンに何も話さずディーターが医者を頼むというのも不自然な話だ。しかしスヴェンはそれ以上に何か気がかりがあると言った様子で、ディーターが危惧したように彼らの不審な点を指摘するようなことはなかった。
マーレの婚約者である青年は、彼女の昏睡が精神的なものであるという言葉に予想外の納得を見せていた。それは逆にディーターの不安を煽った。
「あの……スヴェンさん」
これまでディーターとしては、夢魔に出会うまで姉が眠り続ける理由や思い悩んでいる様子に具体的な心当たりがなかったのだ。しかしスヴェンの方では、マーレがそうなる理由があったことを知っているようだった。
「スヴェンさんは、姉さんが何か悩んでいたのを、知っているんですか?」
「悩んでいたというか……」
青年は言い辛そうに一度言葉を切った。しかし意を決したように顔を上げ、ディーターとその隣のレリカを見た。
「向こうの部屋へ、行こうか」
あくまでも使用人であるディーターが普段は通されることのない応接間に自ら二人を案内し、スヴェンはようやく語りだす。
「マーレの悩みについて君が知らないのは、君にだけは伝えないよう彼女が頼んだからだ」
そう前置きしてスヴェンがディーターに告げたのは、ディーター自身、レリカに問われた際に脳裏を掠めた事柄だった。
「ディーター、君とマーレの“父”である人は、あるものを盗んで処刑されたという話だったね」
目を伏せ、静かにスヴェンの言葉に耳を傾ける。――ああ、やはりそうなのだ。
「僕と彼女では色んな意味で釣り合わないと言われているのも知っている。彼女のような美人に僕のような冴えない男がという話は耐えられるけれど、中にはゼーフェリンクの財力を妬んでマーレに悪意をぶつける人間もいる。そういう人間が利用したのが、彼女ではなくその親の噂だ」
街の住人は概ね親切で、マーレやディーターが彼らに嫌われるような何かをしたというわけでもない。平凡な姉弟の何事もない日常の中で、それは忘れられていた事実だった。
彼らの父親と呼ばれる人が、罪人であることは。
沈黙するディーターに、スヴェンは心の底から案じる様子で声をかける。
「今までずっと、黙っていてごめんね」
彼の中にもきっと、自分とマーレが婚約しなければ今更そんな噂で彼女が傷つけられることもなかったという思いがあるに違いない。痛ましい物を見る視線に、ディーターはこの場を今すぐにでも逃げ出したくなる。
それを引きとめたのは、彼の服を掴むレリカの細い指先だった。
「一つだけ聞きたいことがあるのだが」
レリカの声だが実際に喋っているのはテイパーだ。もっともテイパーはレリカの意志を読み取れるらしくそちらを代弁していることもあるのでディーターにもそれが正確にはどちらの台詞かわからない。スヴェンはその「腹話術」に不思議そうな顔をしたが、余計な疑問は差し挟まずに彼女の質問に答えた。
「あなたはそれでも――彼女を愛している?」
「もちろんだ」
間髪入れず、けれど決して適当ではなく誤魔化すこともなく真摯に、スヴェンはマーレへの愛情を認めた。
「そうか。ならいい。――行こう、坊や」
テイパーの声に促され、レリカに引っ張られるようにしてディーターは席を立った。スヴェンに礼を言うべきか謝るべきかもわからないまま、同行者の手により強制的に引きずり出されそうになる。
「あ、あの――」
最後に一つだけ、ディーターはもうずっと昔から考えていたことをスヴェンに問いかけた。
彼は酷く驚いた顔をし、次いで勢いよく首を横に振った。彼ならそうするだろうと、ディーターも予想はできていた。
この期に及んでそれでも問わずにはおられなかったのは、たぶんディーターの甘えなのだろう。
レリカに腕を引かれ、ディーターは今度こそゼーフェリンク商会の執務室を後にする。
何事か言いかけたスヴェンの言葉は、閉じられた扉に遮られた。