序章 人と魔物
たった一振り、ただそれだけで大陸最強と名高い帝国の誇る騎士団の一部隊の約半数は壊滅した。
『総員退避! 武具を捨てても構わん! 全力で退け!』
幾つもの武勲を立て、その功績に見合うだけのプライドを持つ騎士団長が、そのプライドをかなぐり捨てて叫んだ声が戦場にこだまする。
『魔法隊は可能な限り足止めを!』
騎士団長の顔はすでに蒼白だ。それでも自ら課し、王から課された責任が、逃走へ向かおうとする彼の足をその場に止めていた。
「くっ、化物めっ……」
しかし、そんな騎士団長であっても、前方で倒れ、血に塗れた兵をなぶる異形に対し、立ち向かうような勇気は既に失せていた。
アレに対して人間は立ち向かうということ、《戦う》ということ自体がそもそも不可能だったのだ。ましてアレを《討伐》など、冗談にすらならない。
幾度の戦を治め、伝説とも云われた竜属の魔物を仕留めた帝国の騎士団であっても、それは例外ではなかった。
「報い、か……」
《最強》と呼ばれた事もあった。剣の腕だけならば帝国の内にあっても自分と並ぶものはなかった。
それでも、今までの生涯、驕ることもなければ他人を貶めることすら無かった。報いや業などは自分とは無縁だと思っていた。そう信じてきた。
だが、目の前の光景を見てしまえば、この状況そのものが無意識に驕ってきた自分への天罰ではないかと思えてしまうのだ。
『グォォォオオオオオ!!!』
倒れ伏した兵を喰らい尽くし、異形が吼える。
魔法隊の遠距離魔法による攻撃は今なお絶え間なく続いているが、あの異形は小雨に打たれる程度に気にも留めてはいないだろう。
恐らく、あの異形に在るのは次の食物に対する関心だけだ。自分たちは、獲物ですらない。異形からすれば自分たちは食卓に並べられている料理のようなものだろう。
次の瞬間、後方で魔法を放っていた帝国の上位魔法隊は全滅していた。
瞬く間もなかった。恐ろしい事に異形はあの十メートルはあろう体躯で、目を閉じ、開くまでの刹那で何十人もの武装した人間を殺せるらしい。
恐らく魔法隊の騎士達は苦しむ間もなく死んでいったのだろう。それだけがせめてもの救いだと思われた。
異形がその鋭い牙で騎士達を鎧ごと噛み砕き、飲み込んでいく。団長はその光景を呆然と見詰めていた。
「団長! 前衛部隊の退避、ほぼ完了致しました、後方に控えていた支援隊も間もなく退避を開始致します! 団長も至急退避を!」
部下の声にようやく我に戻る。が、あれだけ逃走を試みていた足はすでに止まっていた。
「団長!」
しかし、頭は先程までとは違い、やけに冷静に考える事が出来ていた。
「おい、お前、死ぬ覚悟はあるか?」
「……団長?」
突然の問いに部下は団長の真意が掴めない。
もう一度、団長が問う。
「お前には帝国のため、騎士として死ぬ覚悟はあるか!」
「はい!」
団長からの言葉に部下の青年は一も二もなく即答する。尊敬する団長と共に国の為、仲間の為に戦って死ねるなど願ってもない事だ。
「そうか! では――」
団長の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
いや、青年が聞き取れなかったのかどうか、それも分からない。
『グオォォオオオオオオ!!』
視界に映る全ての《餌》を喰らい終えた《サル》の遠吠えが地平を越えて響きわたる。
それは純粋な空腹によるものであり、戦いによる高揚でも、痛みよるものではない。
ただ喰い足りないのだ。
既に《サル》の頭には先程食べ終えた《餌》のことなど露ほども残ってはいなかった――。
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魔物と人、争いを続ける二つの種族。
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乾いた冷気の溢れる洞穴の中、少年は一人凍えていた。
故郷に帰ろうと闇雲に山の中を進んだのが行けなかったのか、既に体力のみならず、手持ちの数少ない食料も底を尽いていた。
「……死に……たくない……な」
年端もいかぬ少年は茫然と呟いて、洞穴の外、闇に落ちていく空を見上げた。
「……月」
そこには、少年の心境とは裏腹に、雲一つない空の中に月と、数多の星が広がっていた。
いや、あるいは、人間の信じる神がいたとすればだが、その神が死にゆく少年に最期の手向けとして与えてくれた星空なのかもしれない。
「…な…」
「?」
ふと、声が聞こえた。
「……」
助けが来たのだろうか? それとも単なる幻聴だろうか? だとすれば、神が死にゆく自分に遣わした天使の迎えなのだろうか?
いや、迎えなど来るはずもない、これはきっと単なる幻聴で、自分はもうすぐに死ぬのだから。
そう思って、少年は静かに目を閉じた。
「あ…た……」
幻聴が空高くから響く。気のせいか、吹き付ける風も強くなった気もする。
もう、身体の感覚もなくなってきた。
月と星の明かりの下で死ねるというのは、故郷で生きていては到底出来ないような体験だという気もする。
「……あぁ……でも、出来るなら」
家族の温かみの中で死にたかった。
そう思ったと同時に、少年の世界は闇に閉ざされた。
「?」
あれ、と少年は思う。
自分はまだ生きている、にもかかわらず何故視界はこんなにも暗いのだろう?
「あなたは、誰ですか?」
声? 幻聴ではない、確かに誰かの人の声だ。
残る力で少年は瞼を開ける。
「どら……ごん?」
漆黒の鱗をまとう竜が、洞穴の外から静かに少年を見下ろしていた。
食べられるのだろうか? それは確かに恐ろしい、平時の少年ならすぐに逃げ出している。
だが、今となっては少年には恐怖に震えるだけの余力も残されていない。
「……死ぬのですか?」
恐ろしい黒竜の外見とは裏腹に、優しい女性……いや、むしろ少女のような幼さの混じった声が聞こえてきた。
「…ぁ……」
声が出ない。体力の限界、それが少年の命を尽きさせようとしていた。
少年の視界が、今度こそ、帰る事の出来ない闇に落ちようとしている。
「……あなたは、生きたいですか?」
「……っ」
生きたいか? 生きたいに決まっている。故郷から訳も分からないままに飛ばされ、此処がどこなのかすらも不確かだ。
それでも、少年は歩みを止めたりはしなかった。三日三晩、もしかしたらそれ以上、ほとんど飲み食いすらしなかったけれど、歩み、生きようとする事だけは止めてこなかった。
立ち上がる体力さえ自分に在れば、今だって竜に立ち向かうことも、故郷へ向かうことも出来るのに。
体力は尽きていても、精神は未だに生きたいと叫んでいる。
「………きたい」
「?」
「生きたい、俺は……まだ、生きたいんだ」
それで、少年は意識を失った。星空の下、漆黒の竜に見守られながら。
「……」
黒竜は翼を広げる、そこには黄金に輝く紋様がまるで星空のように広がっていた。
……………………。
「?」
外から降り注ぐ眩さに顔をしかめながら、洞穴の中で少年は目を開けた。
生きている、確かに、自分は生きている。
「夢、だったのか?」
違う……何故なら疲れ果てていた筈の身体には溢れんばかりの命が満ちているのだから。
「あのドラゴンが助けてくれたのか?」
分からない。ましてやドラゴンなんて、おとぎ話でしか聞いたこともないのだから。
身体を起こし、土を払う。
「行こう」
でも、自分は生きている。だったら歩みを止めてはいけない。故郷に帰るまでは、絶対に。
そして、
「……生き抜いてやる、あのドラゴンに礼を言うまでは、絶対に」
少年は世界に向かってまた一歩踏み出した――。
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人と魔物、助け合う二つの種族。
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在る者にとって魔物は忌むべき敵であって、
在る存在にとって人は食らうべき餌であって、
在る者にとって拝むべき恩人であって、
在る存在にとって救うべき対象であって、
在る者にとって共に生きる隣人であって、
在る存在にとって滅ぶべき害悪であって、
在る者にとって欠かせぬ食物であって、
在る存在にとって守るべき子であって、
在る者にとって狩るべき獲物であって、
在る存在にとって試すべき相手であって、
在る者にとって語り合う友であって、
在る存在にとって只の生き物であって、
人にとって魔物は必ず何かであり、魔物にとっても人は必ず何かである。
そしてまた彼にとって魔物とは、愛すべき存在であった。
ただ、それだけの話だ。
とりあえずプロローグだけ。
書き溜め次第投稿しだします。