蛇の誘惑
蛇は竜に暴言を吐いてどこかへ行ってしまう。怒る竜をなだめ、亀が蛇の話を聞きに行く。
蛇はとある谷底の影になっているひんやりとした場所で寝ていた。
亀は近づき、声をかけて蛇を起こす。
ここにいればしばらく誰にも見つからないだろうと高をくくっていた蛇は一瞬たじろいだが、すぐに不適な笑みを顔に浮かべた。
とにかくどんなときでも笑っていた方が余裕があるように見える、ということを蛇は生まれながらにして心得ていた。
「こんなわかりにくい場所にいるのに、よく俺を見つけることができたな。驚いたよ。」
「僕はこの大地のことなら何でも知っている。山から川から谷から何から何まで。」
「何から何までってことはないだろう。」
「いや、僕は全部知っているんだ。」
「一体何があったっていうんだ…」
亀は竜に初めは子どもと認められなかったこと、空を飛び逃げる竜をひたすら地を這って追いかけたこと、その結果大地のことについて竜以上に詳しくなってしまったことなどを話した。
初めは淡々と話していたが段々と感情がこもっていって最後には身振り手振りを加えてほとんど怒鳴りながら話した。
亀だってやはり不満を抱えていた。
一度気持ちを言葉にするとその不満はとめどなくあふれた。
「…というわけさ。ひどいものだろう?」
「なるほどねえ。あんたもなかなかも辛い目にあっているんだな。しかしまあ色々あった結果今では世界で一番の知恵者になったんだからいいじゃないか。」
「何も知らない蛇には僕の気持ちはわからないさ。」
「そんな突き放したみたいな言い方をするなよ、兄弟じゃないか。しかし親父はろくでもない奴だな。それだけははっきりしたぜ。」
「そうはいってもお父さんがいなければ僕たちはこの世界に生を受けることはなかったんだ。たとえお父さんがどんなひどい奴だったとしても僕たちはお父さんに服従しないといけない。そうだろう?さあわかったら一緒にくるんだ。そしてお父さんにきちんと謝って許してもらうんだ。」
「納得いかないね。」
差し伸べられた手を避けて蛇は近くにあった大きな石の上へ逃れた。
亀よりもずっと敏捷に蛇は移動した。
背中に思い甲羅を背負った亀には容易にそこをよじ登ることはできない。
ただ亀は下から声をかけることしかできない。
「おい蛇、降りてくるんだ。」
「なぜ父親だからといって俺が竜に服従しなければならないんだ?親父なんて図体がでかく、力が強いだけのことだ。それに空が飛べるからといってそれがなんなんだ?大地のことならあんたが知り尽くしている。あんたがいるかぎり親父は地上では好き勝手やることはできない。そうだろう?」
「そんなことはない。お父さんはいざとなれば大地そのものを吹き飛ばすほどの力を持っている。平和に末永くこの大地で生きていきたいのならお父さんに服従するしかないんだよ。」
蛇は舌をちろちろ出して笑いながら言う。
「ははは。はったりさそんなものはな。」
蛇は岩の上から跳ねて亀の甲羅の上へと飛び移った。
かなりの衝撃だったが亀はびくともしない。
「あんただって気付いているんだろう?3つも一気に卵を作ってすっかり親父はやつれてしまった。もう以前ほどの力は残っていないのさ。」
「…卵を生む前のことを知らないお前になぜそんなことがいえるのだ。」
「わかるさ。こんなに広大な大地を1人で作り上げた親父があんなによぼよぼでしわがれた爺のはずがないじゃないか。一方で親父が生んだ卵から生まれたこの俺はこんなにも力にあふれ、聡明だ。となれば答えは一つしかないじゃないか。親父は卵を産んだことによって力を失ってしまったのさ。」
「…。」
「親父の最初の子どもであるあんたがそれを認めたくないという気持ちわかるぜ。しかしな、このままじゃジリ貧なんだよ。力を失ってしまったということ、それを一番よく知っているのは親父自身だ。親父はこの先、本当に親父の身を心配して色々きついことを言ってくれる賢いあんたより、ひたすらに自分を褒め称え甘えてきてくれる愚かな蛙やトカゲの方を愛するようになるだろう。自分の弱さから目を背けるためにな。」
「…馬鹿なことを言うな。」
「親父がそんな醜い愚か者になっていくことにあんたは耐えられるのか?尊敬していた強大な父親がそんな風に堕落していくのに耐えられるのか?なあわかるだろ?もう…」
「もうやめろ!」
「もう竜の時代は終わったんだよ。」
亀はぶんぶん体を振って蛇を背中から落とそうとした。しかしすでにその前に蛇は自分から飛び降りてしまっていた。
蛇はするすると移動し、そばの谷の岸壁を器用に登っていく。
岸壁にしがみつきながら蛇は亀に向かって声をかけた。
「今日のところは大人しく親父のもとに帰って謝っておくさ。しかしな亀、いや兄貴。俺は親父なんかよりも兄貴の方がよっぽどすごい奴だと思っているんだ。これ以上親父が愚かになっていくのを見たくなくなったら…俺に相談してきな。」
亀は何か言おうとしたが何を話せばいいのかわからなかった。
そうこうしている内に蛇はもう谷の上まで登って姿を消してしまった。
自分がこの谷の上まで登るのにはもっと何倍もの時間がかかってしまうな、とだけ亀は思った。