四章-2
「今回は?どこを失ったのだ、主」
いつの間にいたのか、僕の座った椅子の背後からジンが声を掛けてきて、思わず隣の席の柏に体当たり。小さな悲鳴が聞えたような気もしたが、取り敢えずは危険回避を優先する。
「……そうだね、バジリスクでの思い出が大分削られたようだ」
脳内の記憶を整理して、奪い取られた記憶が何だったのかを大まかに説明する。
「それと、晩たちとの記憶もいくらか」
その答えに眼を細めたジンは意外にも椅子から離れ、部屋を出て行こうとする。電話するのか。
「兄上殿を呼ぶ。その間は、ほれ、そこのと会話して確認するんだな」
「うん」
「……何の話だ?」
「OVERに削り取られる記憶は攻撃された部分が持っていた分の記憶。だから、腕に攻撃を受ければ、その腕に関して思い出深かった記憶に欠如が生じる。OVERに襲われた人たちは次の日には目覚めるけれど、記憶の混乱も治っているけれど、実際には記憶を取り戻してはいないんだよ。ただ、記憶というのは脳だけでなく体全体が思えていることだから、攻撃を受けた一部において記憶がダッシュされても他の部分が補って、記憶の奪取がなかったことに思えるだけなんだ」
それぞれの部分がそれぞれに記憶を持っている。だから、脳の記憶が失われても身体が自然と動作を行う事はよくある。逆に言えば、削り取られればもう二度と、その部分は戻らない。削られた箇所の記憶は奪われた。同じ思い出であっても、脳で感じたことと肌で感じたことが違うように、それは二つと無い。
そう柏の疑問に答えれば、息を飲んだような音がそこかしこから聞えたが、それほど重要とは思わない。パラドックスの主要メンバーの揃うこの場所で話すことに意義はあるにしても、僕自身に影響する事は今現在ない。
「でもそれはただの記録。あの時にどんな風に思ったな、と思い出してもそれは実感として沸いてくるわけじゃない。当時のことが今では微塵も、何の感情も抱かなくなる。他人のそれを見ているようなものだからさ」
柏の困惑した表情は変わらない。仕方ないかな、と苦笑する。頭が良くても説明だけでは実感がないだろう。だがこれは事実として理解してもらわないといけないことだ。酷だが、実例を示す。
「フォックスとヴィオとロキの三人で祭りに行ったことがあったよね。ヴィオがギルドに入ってすぐの頃、買い食いのためにロキに急かされて。ギルドの留守番なのに、出て行っていいのか、ってそんな話をした」
「――よく、覚えてるな」
「まあね、記憶は“フォックス”の中に保存してるから」
思い出そうと思えば思い出せる。それでも感情までは復元できない。
「その時、ロキが僕とヴィオにって、杏子飴を買ってくれて嬉しかった、はずなんだ」
それは本当に嬉しいことで、周囲の喧騒に負けないほど声を上げて笑った。笑顔が零れた。
「ヴィオも拗ねたような顔して食べてたね。僕は三人で食べるのはおいしいって思ったよ。……でも、今の僕は感想だけだ。今の僕はそのことが字面で見ただけの事柄にしか思えない」
思い出せるのはそういう風に思った、という事実だけ。感情は伴わない。抱かない。
「空が青かった、風が心地よかった、店のおじさんの声が響いてた。――色づいて思い出せるのにそれは映像でしかない。実体験じゃなく、まるでテレビか映画でも見ているような、第三者にしか感じ取れない。思い出なのに、僕にとっては思い出じゃない」
寂しくても、これは事実だ。僕の記憶はそうやって、幾つ失われただろう。
蒼白な顔に、僕は大事に思われているだろうか、と伺いかけて、止めた。人と比べる事は意味のないことだ。そもそも、比べるに値する存在でもないんだ、僕は。
「なら記憶、つくりましょ」
その声に、振り向いた。以前は混乱に泣くほど気を高ぶらせた海和は、けれど努めて明るく言った。皆の目が点になる。
「ほら!任務も終わったんだし……酒盛りよぉぉ――!」
その言葉に、俄かに盛り上がる。徐々に、それは広がっていった。