三章-20
「ああ、なんて愛らしいのかと焦がれるよ。その卑屈さはまるで処女の恥じらいのように柔らかで美しい、慈しみだよ」
「は!?きもいんだけどッ!」
思わず顔が引きつった。いや、過剰反応だろう。そうだろう。皆の視線がコチラへと向いたなんて気のせいだ。
「……おや、失言」
自分の発言に気づいたジンは、けれどそれほど申し訳なさそうでもなく謝った。
「しかし好機でもあるな。主、我は質問したい。我の言葉、過ちではないかな?」
「……。デリカシーという言葉を、知ってる?」
あえてそこまで発言するなんて、死にたいという宣言だろうか。
笑顔のジンに笑顔で毒を吐いた。
「それはそれは、まったくもって、その態度を肯定と、主が処女であると取ってよいのだな?」
まったく、付き合ってられない。気分も相当に悪い。戦闘が後を引き摺っている。
「――今日は気分が悪いな、もう帰ることにするよ」
そう言って、無礼な男たちに背を向ける。視線が追うのはわかったが、それを意に介さず僕は扉に手をかけ――
「――ッ」
「わっ!」
ちょうど、内開きの扉を開けて入ってきた糸闇とぶつかった。半ば押し倒されるような形になって、顔が火照るのを感じた。ああ、顔が上げられない。
「すまん、だいじょう――示崎?顔赤……」
「タイミング悪いな君は!」
気遣いの言葉は途中から代わり、僕の現状を表すものとなった。けれど、このタイミングで、あの話の後で、それはない。遮るように言葉をぶつけ、手を差し出して身を起こす手伝いをしようとした糸闇をやや強引に押しのけた。
「へ、ちょ――」
「静さんの所に顔出す約束あるから先に帰る」
こう言う時はさっさと立ち去るに限る。誰にも顔を見られないといい。
「え、おい、静さんって――」
「姫の兄上殿だな。我は彼に殺されるかもしれないので主を追えない」
原因物体ジンが糸闇にそう言うのが聞えたが僕は無視した。
そもそも、あれが近寄らないところを選択したわけだから。あの災厄は本当、最後まで迷惑をかけてくれる。
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長い指を動かす様をぼうっと見ていた。そして懐古する。
あの時、そっと声に出したのは単に淋しさだったのかもしれない。
『――静さん……。僕はあなたを利用します』
それでも、いいんですか。問いかけた言葉はそのまま空間に飲み込まれたかと思った。しかし、それは違う場所で飲み込まれていた。静の理解の下に。
『互い様だ。利用させてもらう、晩』
呼ばれたのは後にも先にもその時一回だけだった。
大人な彼の優しさを利用して、彼の思いを利用して、彼の立場を利用して、……あの時、示崎杏は死に、“僕”が始まった。
子供の夢を実現するために、彼は力を貸してくれている。静はそれをツケだと言った。初めに考えもせず行動したことの。それはジェミニを僕らだけの玩具にしなかったこと、製品化して利益を出してしまったことを言っているのだと思う。しかし、既に六年前。
静だって二十歳で、純粋にいいと思ってしたことだ。利益を上げたのは静に関係のないことだし、その人気にしてもそれが素晴らしいものだったからだ。静がしたことは妹のために奔走し、出来上がったものを皆にも楽しんでもらいたいと享受を願っただけ。
世界の理を知らずにいたのは皆で静だって僕が言うまで知らなかった。ジェミニの本当の理由は晩と架火しか知らなかった。僕も、あの日までは思ってもみなかった。
「初対面の時、僕はあなたを白馬の王子様なんじゃないか、って夢みたいなことを思いましたけど――」
親切心でも、颯爽と現われたヒーローでもなかった。
けれど杏がそんな彼に憧れを抱いたのはそのことを知っても変わらなかった。
彼はまさしく憧れの存在で、大人で、悲しいぐらい大人だったのだ。痛みを表に出す術さえ失くしてしまった、可哀想な人。支えになれればいい、と何度思ったことか。はじめからわかっていた。“杏”を捨てれば、彼を支えることが出来ない。それでも、“杏”を捨てる選択をした。僕は“僕”でいようとした。――最も大切な事は何か、そう自身に問いかけた答えは彼を見捨てることだった。
「苦労人の参謀ですね」
やや苦笑する彼は仕事の手を止めた。そして、手を伸ばす。その先に僕は近寄った。机越しのその距離で、静はもう一度手を伸ばし、僕の頭に触れた。そして、撫でる。
昔から変わらない仕草で、今は座っている彼のほうが低いのに、穏やかな眼差しで見つめている。途端に懐かしさが舞い戻った僕は表情を緩めた。
「そうだろうな。参謀だからこそ、俺は代わりになれない」
王の気質を持った人間。リーダー格。それはジンではない。強者ではなく、絶対的な信頼の的としての、象徴のような存在。
それはヒーローで、英雄で、勇者で、そして示崎晩という一人の少年だった。