三章-17
苗字も無く、ただ呼吸をする杏はその存在に会うまで生きていなかった。
幼い頃に両親に捨てられ、施設に引き取られた。見つかった養父母はすぐさま自殺した。家族仲がよくならないことを気に病んでいたのは知っていたが、自殺するほどに追い詰められていたらしい。子を愛せない、と手紙によって伝えた彼らは逆に愛情が深かったのだと思う。
施設に戻った後も状況は変わらなかった。それはそうだろう、養父母が自殺。しかも子どものみを残していったのだ、理由がそこにあるように感じられた。そして感情が出にくい杏の性格も気味の悪さに環をかけたらしい。――野垂れ死んでいたら、と今は思う。
ようやく見つかった二か所目の引き取り先、杏は養父母とはぎこちないながら家族として過ごした。
しかしすぐに子が出来、杏はいらない存在となった。
次々と義弟が生まれた。弟ばかりで妹がいなかったせいかもしれなかったが、杏にとっては戸惑うばかりでその子達と仲良くする事は余り出来なかった。そうすると親の愛の差が見えてくる。徐々に同情と義務のみで育てられているのだとわかった。
しかし、それも義父の会社が倒産したことによって終わる。杏は借金の肩として売られた。子どもたちの中で杏が選ばれたのは当然だった。あっけない、別れ。
だが、静が現われた。初めて会った彼はまだ学生で、しかし大人の雰囲気を持っていて、杏の身柄を引き取ると言った。悠木財閥の嫡男である男が、いらない娘に対しそういって来たのだ。借金さえも肩代わりしてくれた静に養父母は容易く手放す。。
けれどその理由は杏にはなかった。杏の双子の弟に頼まれてやったことだった。
弟の存在は知っていたが、杏は見たことさえなかった。最初から、別々にされていたのだ。杏が生まれた時から不運体質だったからだ。人との接触はなるべく避けるように、と育てられた。それなりに裕福な家の生まれだったらしく、広い家は寂しさを膨らませたが、それを愛だと、その時の杏は思っていた。侍女から聞く限りでは“幸運体質の天才”――それが弟だった。杏とは正反対。
そうして、七歳。――弟は、晩は倒れた。
神童――そう、晩は呼ばれていた。誕生日に晩は倒れた。すぐさま病院に運ばれ、それからは入院。もともと、晩の身体は弱かったらしい。それが今になって現われたのだ、と。杏の不運体質が故としか思われなかった。杏は施設に入れられた。顔を見たことさえない弟のため、杏は捨てられたのだ。――晩は杏の存在さえ知らないと思っていたからこそ、驚いた。
『あんたが俺の妹?へぇ!可愛いじゃん?』
『あんたが私の弟?へえ!頭の軽い男に見える』
そこは譲れないとばかりに白い病院のベッド越し、売り言葉に買い言葉を交わしたのが双子の最初の会話だった。病院で、静と架火のいるその部屋で、四人一緒の最初の思い出。
『ピーマンも苦手なの?やっぱり弟だよね、その子どもっぽさ』
『うるさいっ!知ってんだぞ、杏が甘いもの苦手なの!』
『嗜好品は口に合わないだけだよ。それより、それは架火がしゃべったのかな?』
『えー?そんなこといったっけ?兄貴には言ったかもだけど』
『盗み聞き?』
『たまたま聞えてただけだっつーの。ほら、ピーマン食え!』
『三人とも病院では静かにしろ』
『はーい』
そんな何気ない会話をした日々があった。――けれど。
『晩の身体がもう保たないって、……どういうことですか静さん!』
『言葉通りだ。――おまえも知っていたろう、先天的なものだ。現代の医学ではこれ以上、どうにも出来ない。苦しませて生きながらえさせてきたが、これ以上は無理だ』
『っ本人、は――』
『知ってる』
告知は杏が最後で、それがとても悲しかった。数日前から架火が塞ぎこんでいたようだ。晩も考え込むように窓の外を見ていた。そんな二人に気づきつつ、杏は何もわかってなかった。そして、心が求めるままに、静に泣きついた。その頃の杏は既に悲しさが隠せなくなっていた。三人と出会うことによって愛情を知った。感情が表に出るようになった。それは変化だった。いい、変化の筈だった。