二章-18
そこは暗く明るく、天国で地獄だった。人のいない神殿――大聖堂。静謐な空間であるのに退廃的で侘しく、また悲しみに溢れていた。それはどこもそうであるように、廃墟となって佇み、時を物語る。ジェミニという仮想世界でさえも人々に忘れられた土地。
そこに僕はいた。
魔法に使われるような円陣の上、四つの神像が立ち並ぶ。それは崩れかけて、埃をかぶって、見放されたジェミニの神。信仰者ならば怒りに震えそうな、神の滅ぶ姿。それは崩壊する建物の最後の依り辺、四本の支柱。壊れて原形を留めないまま放置された人の似姿。翼を持ち、だが石造という飛べない存在――。ジェミニを現すのにこれ以上のものはない。
狭く中央を向き合う四神の一つに僕は手を伸ばす。それは盲目者の涙する像だった。
(ナヴィアの像――)
嘆きを示すナヴィア。嘆き・祈り・怒り・喜び――四つの感情を司る神の一体。
だが、ここにある姿はジェミニに広く親しまれる神とは違っていた。
炎の翼を持ちながら大地に縫いとめられたフェノーバは足を失い祈る。大自然を水柱に見立て迸らせるゼブルクは腕を失い怒りを示す。足元から生命の息吹を広げ芽吹かせるザメロは胴体を失ってなお自らの喜びを体現させる。――そして、黄金を液体にして掲げるナヴィアはぽっかり開いた眼孔の虚無から嘆きの涙を掌から零す。
それぞれが身体の部位を失くしたこの聖堂の神。だが、この不完全さこそが、正しい。本来の在り方。ホームタウンにも、エリアにも隅々まで配置された神より、よほど美しい。
僕はナヴィアののっぺりとした頬を撫でた。よく磨かれた大理石のように、艶やかで冷たい。そして、その虚ろな眼孔に指を沿わせ、僕の能力が補った眼に視線を向ける。
その眼を、眼光の奥を。僕は嘆きを知り、僕はその感情の正体を知った。既に、ナヴィアを保管する条件を満たされた。不完全が完成される、ナヴィア。
だが、それはより明確に知らしめる。眼の、鼻の、口のない様は無力感に溢れ、そしてそれ故の無謀さと絶望にあふれている。五感のすべてを失った神の姿。
人の強欲はナヴィアを貶める。――人の真の姿を見抜けない姿、それがナヴィアの罪。
あの日、僕は嘆きを知る。流れ込む感情、記憶。そうして追想する。
「何故だ!何故見逃したッ!」
最初はわけがわからず、激情のままに怒鳴った。
だが無意味に等しかった。怒りに対する答えは、冷徹な瞳。仲間と思っていた連中から受ける、冷たく無感動な視線。――ああ、仲間などではない。
共に過ごした日々が一瞬、頭に駆け巡ろうとして、無理やり思考から追い出す。
「何故だ!」
「――金のために決まってるだろ?」
声が響く。頭に直接、衝撃のように、繰り返し響く。頭が壊れそうだ。
「何怒ってんだよ、意味わかんねぇ奴だな。俺たちがお前をハブいたからか?分け前が欲しかったのか?」
「んなに怒んなくても次の時は誘うからよ、熱くなんなって」
「獲物は未だ沢山いんだからよぉ」
揶揄する声に、冷静など当に失った心は叫ぶ。
「――俺は抜ける」
それは決別だった。
人々を助け、悪を善に。――虐げられる人々のヒーローとして立ち上がったはずの場所は、いつの間にか金に塗れ、嘘に固められた砦となっていた。
そうか、と呟く声は親友だったはずの男のものだ。
そして「アバヨ」と続いた、自らに落ちる影は後輩のものだった。
振り返りざまに切り結んだ相手は尊敬していた先輩で、……「もう、いい――」
背を向けたのは、かつて憧れ望んだ正義を御旗にした場所ではなく、欲望と悪意に満ちた場所だった。
それからどれほどの人を信じただろう。
最初に裏切られてからはわりとあっさりとしていたような気がした。覚えきれないほどの裏切りに、失望に、絶望に、――嘆いた。
人を愛している。人を救いたい。人を助けたい。
それは偽善と呼ばれても良かった。己の心に嘘をつきたくはなかった。
罵られ、嘲られ、軽んじられても、裏切られても、――信じ続けた。
(ルッツの心の叫び。嘆きの元凶。――絶望の始まり)
盗み見たことに嫌気が差した。
けれど、それにより、物語は一歩、進んだ。――ナヴィアの復元により、嘆きは扉を開いた。中央の魔方陣は円を一つ、消していた。
ルッツはナヴィアを討ち取り、しかし自らをも深い傷を負った。薙ぎ倒した敵は、受け入れられなかった自らの真実だからだ。結果的に、ルッツはその意志を完遂させた。ナヴィアの犠牲者は救われ、意識を取り戻した。現実で、自らの未来を再び歩みだしている。だが、代用するように、ルッツは懇々と眠り続ける。
「次はフェノーバの順番だ」
二つ目の像、フェノーバ。レティスが同調した神。足のない像は大地に羽を縛り付けられている。羽を貫く杭に手を伸ばし、僕は躊躇った。
フェノーバは自らの足がないことを知らず、羽が動かない事に空にいつかを祈った。この神もまた、真実を知らずにいる。羽を縫いとめる杭を外せば、彼は知るだろう。いざ空を飛ぼうにも、自らの足は動かないのだと。祈り続けた先の答えを、彼は知る。
僕がどれだけ悩んだところで始まってしまっている。もう戻れない。ならば――そうする以外、僕には選択肢すらない。――僕が、ロキが、変わらない限り。
(レティスの心は晒され続ける)
金の鍵が彼の色と被って、……けれど、僕は、レティスの心を開いた。
「ナヴィアの嘆き、フェノーバの祈り、ゼブルクの怒り、ザメロの喜び――四つを集めた時、真実は色を持つ。扉は開き、誰もが知るところとなる――オルトロリカの罰へ導かれる」
過去二度だけ開いた。けれど人の侵入拒む扉は再び堅く閉じられた。僕を拒絶している。だからこそ、これが最後だ。もう、この機を逃せば人の手の届かない場所へ行ってしまう。――それぞれの場所は感情を謡い、詞を奏でる。
(だから僕は君を導こう)
「始まりは告げた。真実は開花を望み、君を待っている」
聳え立つ、強大な存在を前にして僕はただ語った。
今この場、この時に許されるのは語ることのみ。この扉が開く時を望み、しかしそのために動くことが許されているのは僕ではない。ただ、沈黙せざるを得ない。
祈るなんて行為に意味はない。けれど、僕は願うように祈る。あるいはそれはレティスように。
無所属エリア【並々 そそがれる杯 涙の雫は告知 悲しみ 未だ癒えず】古跡。ノーデータ