表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Distorted  作者: ロースト
33/106

二章-4

 ――悲鳴が聞えたのは、予想の範囲内。

 しかし、それと焦らないのとではぜんぜん違う。ガラスの割れる音、金属音。他の誰かの悲鳴と集まる好奇や悪意の視線。注目が集まるのはいい。けれど、そんな汚らしい心で彼女を見て欲しくない。汚して欲しくない。僕の心は一人取り残され、思考へと落ちたように不鮮明だけれど、身体は衝動に突き動かされるように動く。運動神経は切れているといってもいい普段を忘れてカウンターに手をつき乗り越える。

 二人はカウンターから見える位置に席を取ったから、状況も見えている。転入生に興味を持った人が触った。それだけ。しかし、架火は暴れ、悲鳴をあげ、泣き出し、求める。


「架火」

「あー――ああー―――ああああぁ!」

 声を掛けても反応はない。小さな身体を精一杯威嚇に使っている。その攻撃力の低い手にはフォークが握られていて、誰も近寄れない。ナイフじゃないことに僕は安堵するけれど、それでも状況は困難。焦点が合ってないし耳も貸してくれないようだ。完全に正気を失っている。容赦のない攻撃が僕にも向けられる。だが、躊躇う時間も余裕もない。

「いやぁー!嫌い嫌い嫌い!みんな嫌い!」

 架火は弱く、脆い。卑小にして矮小。そんな彼女を愛しく、大事に思う。

 これほど愛しい存在があるものか。小さな身体を震わして、警戒のように必死に手足をばたつかせて、――それはどんな小動物よりもいじらしい。長い睫毛に縁取られた大きな瞳に溜まる涙も、陶器のように滑々とした頬を流れる冷たい雫も拭ってやりたいと。

 接触行為自体に問題はない。ただ、彼女自身が認知していない存在が触れることは、架火という存在自体を揺るがす行為だ。だからこそ、柏のことは認知させてからその場を離れたし、柏にも触れるなという警告をした。けれど、食堂の混雑は侮れない、と学習する。

「大丈夫、恐がらないでいい」

 傷つくのも構わずに手を伸ばした。案の定、ピリッとした痛みが走り、傷が出来る。けれど怖気づきはしない。架火との関係性を続ける上で、これはよくあることだ。僕はか細く弱い腕を取り、いつものようにその小さな体躯を引き寄せ抱きしめる。

 他の何ものからも隠し、自分自身で覆い隠す。架火の闇は狂気に違いない。皆の視線に恐怖が混じるのは分かりきっている。それでも僕は彼女を守らなければならない。――彼女の闇は僕が呼んだものだから。

「守るから。君を何ものからも守るよ」

「晩!晩!晩!晩――!」

 耳元で叫ぶ彼女の声を煩わしいと思う。けれど、それを塞ぐ手はない。

 この闇は僕が、彼女に背負わした枷。僕は耳元でその誓約を囁くだけだ。

「――が、絶対に君を傷つけさせない。守るから」

 けれど、どうしたって架火は僕の大切な存在ではないのだ。大事で守りたいと、愛しくも思うけれど、大切な存在にはなりえない。

 架火は僕の存在を証明する。架火がいなければ僕は存在し得ない。だから僕は、“僕”で居る為にも架火に傍にいて欲しい。それが、架火を傷つける行為だとしても、僕は僕のエゴで行動する。そこには彼女を大切に思う気持ちなど、含まれなくて、彼女は重要な存在だけれど、大切な存在だけれど、大切に思う気持ちはそこにはなかった。

 大切という気持ちをどこかに置き忘れたまま成長した僕らは、互いに関する感情を持たない。依存の関係にありながら、信頼関係を結んでいるわけでもなく、ただそうあるようにしてそうなっている。意義。そこに言及されるが故に僕らはこうして二人で居る。


「痛いよ、架火」

 痛い――心が、痛い。




「あ……っ?」


 架火の瞳が虚空から僕へと移動し、その瞳に僕が映し出される。薄汚いこんな存在を、その穢れを知らない綺麗な瞳に映し出されることが堪らなく嫌だった。

「晩、けが――いたい?」

 尋ねる架火を無視して、僕はその身体を手放す。

 先ほどはあれほど愛しく、離れ難く思ったその存在が今は煩わしくてたまらない。それは多分、生まれたばかりの赤子に対する気持ちだ。赤い血に塗れ、皺くちゃの猿のような人の未完成形。小さくて泣いてばかりの手間のかかる存在は清らかなはずなのに、とても汚らしく見える。煩わしいのに愛しさを感じる。矛盾する想いを抱かねばならない存在。

 僕にとっての架火は赤子。あの化物と同じ。だからこそ、自らが撥ね退けたその手が追い縋るのを拒絶することはしなかった。

「そうだな、痛い。でもそれほどでもない」

「そう、かぁ……」

 彼女を大切に思っていた時期はあった。けれど今はもう、果てしない記憶と後悔に飲み込まれたようにその感情を思い出せない。架火は僕の存在を証明して、証明して、……消えてなくなってしまいたかった。本音が彼女を憎む。その存在を恨めしく思う。


「どうした……っ!なにがあった!」

 遅すぎる教師の登場。そんな彼に、いつもどおりの態度で、しかし表情だけは抜け落ちて、どこか不一致な返答をする。

「先生、彼女を病院に行かせるので、見送りしたら帰ってきます。それまで、ここを保持しておいてください。くれぐれも、誰一人、ここから出さないように」

「あ、ああ……わかった」

 説明が必要でしょ?と担任に含ませれば肯いた。狼狽は強いが、はっきりとした返事だ。この場を任せてもよいだろう。教師は悠木の名を十分に知っている。僕は架火に向き直ると「さぁ、行こうか」といつもどおりを演じる。異様なる空間を原因物質が退場する。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ