二章-2
教室に入る前から繋いでいた手を引いて、空いている席へと促す。急遽作られただろう、その席は僕の席に近い。窓際の、一番後ろの席。椅子を引いてやってから、小さな身体を座らせる。人形のように大人しく、僕に任せきりでいる架火は本当に息をしていないかのようだ。瞳は僕を映すのに、何処もみていない。何とも思っていない証拠。その思考は僕には分からないが、ここにないことだけは確かだった。それもいつものことだけど。
「架火。一人で行動するなよ」
床に片膝をつき視線を合わせて忠告。瞳を見つめ、こくん、と頷きだけが返される。
「わかってるよ。そうじゃないと怒られるんだもんね?」
「そう」
軽く返して、どこまで分かっているのだろう、と思いつつ。踵を返す。既に架火はバッグから持ち運びようのパソコンを開き、仕事を始めている。
「過保護じゃないか?」
席に着いた途端に尋ねてくる寿々原に珍しく過干渉だな、と心でごちる。
過保護。そう、他人は見えるかもしれない。けれど、あれは架火に対して必須だからというだけ。今日あったばかりのクラスメイトであっても抵抗はない。単にその数多くある大小約束事一つ一つを知り、手伝うことができる者となると限られてくる。ヤドカリと同じだ。他者の存在を感じると殻に閉じこもり、身を隠す。身動きすることなく、ただじっとしている。触られても、動かされても、沈黙を続ける。架火もそうだ。
架火は人嫌いだが好奇心旺盛。警戒心が多いくせに無邪気。そして欠陥だらけの癖に人を集めやすい。こんな場所にいては考えなしの馬鹿が彼女に危険をもたらす可能性がある。幸運体質の彼女はしかし、その能力を一人では発揮することが出来ない。自身に影響するのでなく、他人に影響する。人幸せにすることのできる体質。僕とは鏡のように逆な少女。
「――架火は特別なんだよ。だから逆に欠陥も多い」
アレで天才なんだ、と括る。天才は天才をやめられないから、世界の歪みは晩を殺した。
「――示崎、やっぱおまえ……ロリコン?」
「だから違うって」
「うわっ!無言の圧力。笑顔が恐っ!」
いらっと来た。やっぱり、とかロリコンなんて言われるのは心外だ。
その言葉で思い出した。少し前、休みの日に寿々原に会ったのだ。架火とのショッピングの時だ。その時にも同じ言葉を聞かされて、同い年だともそういう関係でないとも否定したのに、ここになって未だ言う。そもそも同じクラスの転入生に対して年下扱いをしている。見た目はどうでも、実年齢として架火は妥当であるのに、何故こんなことを言われなくてはならないのか。
「無言の圧力は俺も同じなんだがなぁ、寿々原、来往?」
いつのまにか寿々原の席まで来た担任は悪どい笑顔で言ってくる。その手には殺人チョークと丸めた教科書がある。これはもう、戦闘準備は万全状態のアピールだ。
「前向け、話し聞け、一限は俺の授業だ。――柏、おまえもだ。なに無関係装ってつっぷしてやがる」
念仏のように連ねる言葉の最後に柏への文句が混じる。隣の席だったというだけで、被害を被ったか、と思うがそうでもない。
「今日は当てるからな、頭いいからって寝るなよ」
「……。……教科書忘れました」
「僕見せようか?」
自業自得だな、と苦笑しながら、僕は隣を見た。そして、僕を映した瞳には白い闇があることに気づく。
「示崎、こいつまで甘やかすな。数学は教科書なくても出来る授業なんだ」
一瞬思考が囚われた。が、担任の声にすぐ覚醒した。顔を前へと戻す前に一度だけ横を見かけて、すぐに止めた。それから授業が始まる。教師の声と、注目を知らない架火のブラインドダッチの音が教室という箱の中に反響している。
不協和音――それは単体では綺麗なはずの音同士までもがその組み合わせ如何によってその調和を失ってしまうこと。平穏の中に落ちた雫は波紋を広げ、やがては不協和音として目され、排除の対象となる。しかし、この場合の不協和音とは架火であるか。いや、そうではないだろう。歪なピースが埋め込まれたまま歯車が回り、軋み、皹が可視化するほどに多くなって、目に付くようになった頃に投下された、もう一つのピースが架火。付け足されたピースは余計に波紋を広げる役割を担ったが、元凶が悪かった。粗悪品。付け足された方はそこには必要なかっただけで、欠陥はなかったのかもしれない。しかし、それはすべてを巻き込むように歪めて行く。