二章 女神の運命、聖女に罰を与えん
二章 女神の運命、聖女に罰を与えん
教室の扉を前に佇んで僕は躊躇する。扉を開け、停滞した空間に新しい空気を通すことを。そして、静かさを消し去ってしまうことを。――それは破壊と新生の例え。
僕がもし、この扉を開けてしまったら、平穏はたちまちに失われるかもしれない。古いままでいいはずがない、新しいものに適応するべきだ。けれどそれは大切なものを壊す瞬間でもある。扉を開けた先に何があるというのだ。扉を開けることに意味はあるのか。
「示崎?――はよ」
「っおはよう。もう、中にいると思ってたよ」
背後からの声に反射で身を翻した。その速度が尋常のものではなかったから柏は変な顔をしている。教室に入らずにいるのも不審なのだろう。
柏は僕が掴んだままの扉を、押して開いた。
『なにやってんだよ、早く行こうぜ』
『でも、さ』
『たまには思いっきり独断でもいいんじゃないのか。フォックスはいつも慎重すぎる』
一瞬にしてそれは過ぎ去った。
――そう、彼は過去を断ち切る存在だ。僕が過去を振り返り過去に心を寄せ、煮えきらないのに彼はいつでも前を見ている。どんなに辛くても歩む足を止めることはない。未来を見る彼の背中を躊躇する僕は見ていた。
本当は、言いたいことがたくさんある。言いたくて、言わなくちゃいけなくて、でもいえない言葉。それらを口にすることは僕の胸の内を楽にするけれど、それだけだ。
『柏、いやヴィオ。僕はリスタだ。それに、フォックスでもある。フォックスのログは壊れてしまったけれど、以前はギルド・バジリスクの仲間だったじゃないか。久しぶりだね』
『柏、僕らは初対面じゃない。フォックスだよ、僕は。あの時はとんだ災難だったね。アイツが原因だよね、僕から謝るよ。アイツは僕の双子の弟なんだ、もともと身体が弱かったけどゲーム中に死んだんだ。僕もあれからドタバタしていたし現実では会ったことがなかったから連絡が取れなかったけれど君に会うために帰国したんだ』
『柏、君に協力して欲しいことがあるんだ。今世界各地でジェミニの中に出てくるモンスターが発見されていて、人に危害を与えている。原因はジェミニで、アイツなんだよ。僕の弟でもある。ジェミニの中であるモンスターを倒せば治まることなんだけれど、君に戦って欲しい。ジェミニの深層の扉に辿り着いた君にしか出来ないことなんだ』
(……口に出す勇気もないくせに)
「どうした?」
怪訝に問う柏に僕は顔を上げて精一杯の笑顔で答えた。
「いつも、柏には心配されてばかりな気がするな」
僕は個の時間が愛しい。どんなことがあっても変わらないでくれと祈った、優しい時間。平凡で満たされた空間。――それでも僕は、君一人に押し付ける。幸せを取り戻さんがために、幸せを踏み躙る選択を。
「入ってくれ」
担任の声に、僕は転入時と同じくクラスへと入り、教壇へと向かう。
ざわり、ざわり。観察、見つめる視線。興味・好奇心、不安と興奮が隠された表情。
「示崎くん?」
ただあの時と違うのは、この手を引っぱってくる小さな存在だろう。その柔らかな感触は放しがたく、いつも以上にゆっくりと歩いてしまう。大切な、僕のお姫様。彼女を傷つけたくない、そう胸の疼きに小さく思った。
「事情があって、示崎には世話係を任せてる」
誰かの言葉に教師が頷き答える。世話係、とは大層なものを預かったと思う。だが僕は架火の世話など出来ない。架火は仮にも同い年で、一人暮らしするほどには一人で自分を胴にでもできる。欠陥があってもの独立した個人として成立しているのだ。世話をするほどでも、世話をされるほどでもない。所詮僕ができるのは彼女が無関心な、外的な部分――外見を気にしたり他人との交流を円滑に進めるために仲介したりすることのみである。
「架火、名前」
「晩!」
違う。それは僕の名前だ。にこにことした笑顔で僕を見つめる少女。自分の名前を言え、ということが伝わらなかったのだろうか、とは他人の代弁である。架火は興味のないことは覚えないし、覚えられない。それは自分の名前でさえも例外でない。人に言われない限り、自分の名前というものが分からない。認識したくないのかもしれない。ただ一人が呼ぶ名以外は同じ音でも自らでないとそう思っているのかもしれない。――二年前その思考に、“晩”という名前はすべてが消去された。突発的なことがない限り思い出せない、深い部分での埋没。静のことも、兄という存在も顔もわかるが、静という兄はわからない。
「……彼女は悠木 架火。話す時は僕を通すようにして」
その低い頭に手を乗せた。軽く撫でれば首を傾げながらも嬉しそうにふにゃふにゃってぐらいに顔を緩ませるので、それが可愛いと思う。寿々原に以前、妹かと聞かれたことがあるが、関係性はまったく掠る事はないその気持ちこそ、僕の抱く感情に程近い。兄弟よりも近く、家族よりも遠い存在。赤の他人であり、友人であり、その接し方は気の向くままに構っては放ったりするペットのよう。けれど命よりも大切。そのくせ二人の間の絆はガラスで出来た糸よりも脆く、壊れやすいものだったりする。