一章-2
「じゃあ、ジェミニのタウンでね」
「いつもの喫茶だよね~」
放課後の学校に交わされる話題は決まっていた。約六年前、仮想現実体感ゲーム・ジェミニは登場し、以降爆発的な人気で世界に広まっている。その勢いは社会経済の一部を接合するものであり、大人から子供まで、ゲームという枠組みを超えて人々の生活に馴染んでいた。現実世界を放棄してジェミニに住むことを望むものも多く、長時間利用者を強制ログアウトするジェミニのフィードバック機能を取り外そうという意見まで出てくるほどだ。世界を征服する勢いの人気は日本というそれまで弱小国家を世界一の国と高めるほど、人々の傾倒ぶりは目を見張るものがある。プレイヤーの完全なる自治によって成り立つ第二の社会。法律も罰則も仕事も、すべてが自由な世界。それはただのゲームと言い切るには画期的で、現実的。実にすばらしいとしか言いようのない、仮想世界。
「――つまり仮想現実というのは脳に刺激を与えて本来はないはずの事象を……」
ビルの巨大掲示板、テレビ、電子広告――それらの乱立する視界の中、テレビにはジェミニに対する賛成派と批判派の両者代表が口論を広げている。
「そうはいいますがね、フィードバック機能はあくまでも自己責任ですよ」
目的地までに向かう足を僕は止めた。頭上のテレビを見上げ、耳を傾ける。
「何も他のゲームや何かのように強制的に戦いなどしなくてよいのですから。街で人と会う。めったに会えない人、距離を隔てた場所にいる人。彼らとのコミュニケーションの場でしかない。直接触れ合う機会ができるのです」
「いや、しかしその危険性は度外視できませんぞ。それにしても不穏な噂が多い」
「噂は噂でしょう。そんなものに惑わされて……」
話が個人に移るその時になって僕は背を向けた。向かう先はもっと離れた、隔絶された場所。――BGMとなった口論よりよっぽど高度にして実のある話のできる人物の城。
「ただいま、架火」
悠木 架火。同い年にして大企業の令嬢。引きこもりにして僕の最愛の幼馴染。異端にして純粋を追求した少女。壊れた人形。そしてジェミニの制作者でもある。
サイバー系の天才として世界に注目される若者の一人だが、本人にその自覚は薄く、また人間性は僕から見れば壊滅的。
長い髪の毛が部屋中に張り巡らされるコードに混ざって廊下に散らばっていた。上も下も関係なく巣をかけるコードは例外なく一つ所に繋がっている。蜘蛛の巣が獲物を捕らえるように主まで続き、伝達と振動の中に意識を奪われている彼女を僕は見た。
「うなーぁ?なんあって?」
本格的に壊れていた。
薄暗い部屋の中央でほの明るく発光する画面を見つめていた頭がひょっこりと飛び出し、顔を向けた。小さな顔の殆どを隠してしまうバイザーをかけたままで、表情を見る事は儘ならない。だが、その声は長く発声を忘れるように生活してきた以外のしゃがれを持っていて、僕が声を掛ける以前の状態を容易に察することができた。
「もう夕方だぞ。何で寝ぼけてるんだよ」
軽く頭を叩いて部屋に入り込む。「ただいま」といってもここは架火の家。毎夕おじゃまさせてもらっている身からそう挨拶するのだが、年頃の男女が一つ屋根の下、なんて生活ではもちろんない。僕の家はこの近辺にはあるが夜に気安く出入りできるような場所でもない。この関係性は幼馴染ということに始終尽きる。男女仲が健全というよりもそれは既に性別を超えた関係性。そして架火もそれを望んでいる。決して恋愛の意味はなく、けれども家族のような消えない絆があるわけでもない僕らの誓い。――曖昧な関係のまま、僕らは停止する。
「ふわっ!もうそんななのっ?……ち、ちがうよぉーねぼすけじゃないよ、メイソウしてただけ」
(――迷走の間違いでは?)
瞑想と言いたいだろうとは分かるが、なんとも説得力の無い言葉に抗議の意味さえ感じない。無造作にバイザーを放り投げる仕草に中身までもが子供のようだ。
僕は寝癖の盛大に残る髪に触れ、手櫛で整えながらその柔らかさを堪能する。髪は素直なのに架火は妙に意地を張る時がある。そんな時は決まって僕に関わること、らしい。前に一度問い詰めたらそう聞かされた。彼女にとっての何にも譲れないことというのが僕に関係することだなんて、どんなに受容力があるのだろうと呆れた。頼み事も何でも聞いてくれるので、髪の手入れなど従僕か執事のように僕が自発的に行う。放置するといつのまにか野たれ死ぬような人間だということもある。――けれど、僕のような奴に向かって、そんな真っ直ぐな思いを向けられるのは正直、煩わしかった。純粋な瞳が僕を歪ませる。