一章-26
「ちょ、なにやって――」
棟続きの建物をわたる為の屋上のような、広々としたコンクリート床に足を着く。貯水タンクなどの機材が無造作に接地されている。それらを伝って横へ。
追いかけてくる気配は感じたが振り返らない。己の感覚すべてを注ぎ込み、僕のすべてはその場所を特定することに費やされる。耳を澄ませばそれが歌なのだとわかった。
「始まりの鐘は荘厳 響くは誰の叫びか はじまりを忘れるがため警鐘を 小さく大切な嘆き」
甲高い悲鳴に似た唄は背筋を粟立たせる叫びだった。
「ちょっと待ちなさいって!いきなり飛び出してどうし――ッ!!」
背を追う声が正確に聞き取れる距離になっても僕の視線は一つ、目前を注視する。その先に立ち上る、黒い煙のような靄。それは僕らの前で形を成したかと思うと、弾け、確かな感触の実体が現出した。――人のような二足歩行の化物が誕生する。
「――あれは、OVER、なの……?」
それは、今まで対峙したどのOVERとも違う。獣に人をつけたしたような化物、OVER。ジェミニの中に登場するモンスターの一部。だが、――“ソレ”は違う。
隣で海和は緊張と恐怖に顔を蒼白にしている。圧倒的な存在感、威圧は通常の比ではなく別物、別種としかいえない。何より、獣でない。人に類似した姿形、その持ちえる感情は悲しみ。だが、人よりも格上の存在。――それを人は神と呼ぶ。
OVERの中に存在する四つの、頂点の一角。言うなれば王。ジェミニの神、嘆きを司るナヴィア。その姿が現実世界に君臨していた。
――ゾッとする光景だ。
靄を纏う身体はボコボコと泡を立てて、作り出した身体を次々作り直してゆく。戦闘用の武器を自らの身体に形成して行く。腕が刃物になる。口からは黒い靄を吐き出し、巨腕を鈍い動きで伸ばしてくる。それはまるで幼子が母親に手を伸ばすようだ。人をいとも容易く捻じ切る事のできる腕。それでも、僕は祈りを神に請う罪人の手を取れればいいと思う。けれど、それはただの理想だ。実際には、僕へと伸びた腕は、――切り落とされた。
「ォオオオオォォ。ォォオオオオォ」
「戦闘態勢!」
十二の指示が飛ぶ。けれど「止めてくれ」そう叫びたかった。代わりに刺すような悲鳴が僕の脳裏に響く。悲しみ、痛み、絶望――嘆き。とて、耐え切れそうにない。感情の奔流が僕に流れ込む。視線は合わさり彼に僕を僕と認識されるその時、力を生み出していた。
「――ッ!な、に……これ」
この状況に困惑した声が発される。海和の、恐怖に慄く声は一瞬で出来た、この光景への驚きと自分の意志で動けなくなったという窮状に対してか。
「誰も、動かないでください」
もっとも、誰も動けない状況だ。地面に縫いとめられた彼らを尻目に僕は踏み出す。
その雄叫びは僕には悲鳴に聞こえた。赤子の、親を求める声。痛みのままの泣声。伸ばされた手は痛々しい。その体躯は雄々しくも、それは生まれたての存在なのだ。それを屠ることに罪悪感を覚える。
(――空しい)
誰にも、聞き届けられることはない声は主張する。ただ僕だけに訴えて。それでも、だからこそ僕は、……コンクリートに突き刺さった武器を一つ、抜く。
「君に罪はない。けれど、眠って。最初のMISSING」
――僕の目的のためには必要な犠牲なんだよ。
心で訴え、未だ身体を形成し続け動くことないそれに、僕は止めを刺した。
(君の欠片を消すことは辛くて悲しい作業だけど――君のため彼女のため、僕は世界を切り捨てて楽園を愛おしむ)