一章-22
「――ルッツさん、楽しいですか?」
それは不気味に響いた。誰もが興味をなくして拡散していく中で、その言葉だけが集約するように強くその場に留まる。事後の推移を見届けようとする者は皆無なくせに、そんな言葉だけが嫌に耳に残る。染み付いたように、穢れから逃れられないように、深く浸透する。――発したのが自分だというのに、ルッツへの問いかけなのに、自身にこびり付く。それは罪から、贖罪から、自分にもあてはまる言葉だからだ。
「そりゃ……どういう意味だ?」
笑おうとして、失敗したかのような不完全な表情のルッツに僕は見つめ返す。
「此処に来て、あなたは求めたものが見つかりましたか?」
余興でなく、現実として救おうと努力することは素晴らしい行為だ。けれど、それは徒労でしかない。あの男たちが言ったように、世界には法がない。無秩序にならないのはプレイヤーの良心と常識に委ねられた結果。GMはシステムは内部のことに感知しない。システムに深く関わらない限り干渉は絶無。そんな中で、正義を振りかざしても、数の暴力に屈さざるを得ない。
今いた衆人は第三者で対岸の火事。自分と隣接する事象と考えもせず、無理解。娯楽でと刺激。当事者でないことに安心するしか能が無く、ただ享受する以外には思考も働かない。大多数に依存する思考が蔓延している世界で、ルッツのしていることは少数派。悪循環を繰り返して、ただ独りになっても戦い続けることの出来るものは稀だ。正義や使命を取られたら、心を支えるものが折れたら、“最期”なのだ。ルッツにはそれがあるか。この世界で正義を成す意味はあるのか。この世界――ジェミニはルッツにとって楽園であるか。
「君――」
人道、倫理、正義。けれど、物事には二面性がある。正義は一方面から見た感性だ。一方を正義として、では裏を返してみてもそれは正義なのか。人道と人道がぶつかり合うことも、信念と信念の戦いもある。そんな時、彼はたった一人で、戦い抜くことが出来ないだろう。信じていたものが壊されたら、覆されたら、もう立ち上がれない。――そしてルッツは既に、絶望している。そのことは、ルッツの男達への態度の冷たさでわかった。ルッツは人に絶望している。あの少女を助けたが、あの男達へは残酷にしかなれなかった。慈愛を掲げられない正義など、正義ではない。
絶望し、嘆き、悲しみ、けれど正義を掲げる。矛盾した心に折り合いを付けられず、折れそうなそれを、必死で繋ぎとめているだけの状態だ。現状は、吹きさらし、彼を更に辛い状況へと立たせていっている。だからこそ、それにしがみ付いている意味を、聞きたい。
「人は繰り返す。戦いは何処にでもあって、終わらない」
ここは現実じゃないけど、現実だった。ここでも変わらない。戦いは発生する。人の業だ。人は戦いを求める。裏切り、戦い、憎みあう。
「あなたは戦いが嫌いなんでしょう?この世界はあなたにとってなんでしょうか」
現実は混沌としている。対し、ここは自治をプレイヤー自ら執り行うことで秩序が保たれている。立場も外聞も今までの一切を捨てて一個人として行動が出きるのだ。完全なる自由。しかし実際にはここは現実よりも犯罪が多い。それは偽物の世界だからだろう。だから現実でできないことをする。何をやってもキャラを捨てれば作り直せる。それが強みとなって犯罪――倫理に外れた行動をとる。政府が勝手に決めた法律も無視できる。価値観はプレイヤーが個人で好きに決めるから正義も悪も完全なる多数決。法を犯しても人の心を掴めばいい。許されればなんだっていい。現実にはできない犯罪も気安く行える。盗みも空き巣も暴力も詐欺も殺人も好きなだけ――けれどもそれは無理解が故だ。本質を少しもわかっていない。仮想現実は現実だ。
「あなたの手にした“箱”には何が残りました?」
ジェミニという箱庭で、喪失と取得の先、最後に手に入れたものは何だったのか。
「――失望と絶望を繰り返した嘆きの場だ」
禅問答は苦手なんだがな、とルッツは答えた。だが冷えた瞳は無感動に、ただ現実を映す。無残に、無意味に、残酷に、あるがままを映し出す。失望と希望の狭間に立ち、裏切られ続けることの地獄。――人の業。だから終わらない。費えることなく、繰り返される。
「犠牲のない勝利はない。それぐらいわかる。だが、犠牲の上で得たものに何の意味がある?」
問い返されて、僕はゆっくりと瞬きした。それは真実だ。心理だ。返す言葉はない。返すべき正しい言葉など、存在しないだろう。だが――だが、それではあまりにも無謀。無意味。無価値。矛盾が過ぎて理想的すぎる志の高さだ。だから思う、あなたは選ばれたと。
「正義を貫くには、あなたは真直ぐ過ぎると思います」
純真で、純粋で、透明で、表裏もない?そんなことはありえない。現にルッツは現状を現実を知る。それでも追い求めるのならば、理想に夢を見るのならば、人はそれを狂気と呼ぶのだろう。正常でない、現実を見ろ、と。だが違う。ルッツは前を、現実を見すぎて、絶望しているからこそ、希望を捨てられない。縋るしかないのだ。
眩しい、在り方だと僕は思う。脆く、弱く、けれど強い。真実は資格を持たないものに破滅をもたらす。近付き過ぎたら、いつかの英雄みたいに溶けてしまう。だから、理想を追い求める同志として、僕は哂った。