恋≠愛証明
「恋と愛ってさ、よく混同されるよね」
放課後の学校の屋上。ややオレンジの混じり始めた空の下。
俺をそこに呼び出した彼女はこちらに背を向けたまま、金網越しにどこか遠くを見つめるような姿でそんな事を言った。
「誰かに恋をするという事は、その誰かが好きだという事で、だから愛している事にもつながる――と、そう思っている人は多いと思うんだよ」
黒く艶やかな髪をそよ風に遊ばせながら、彼女は俺の返答を待たずに話を進めていく。
特に言うべきものを持たなかった俺は、ひとまず沈黙を守る事にした。
「でもね、ボクはそうは思わない。恋は何処までいっても恋であり、愛は何処までいっても愛なんだ。非常に近しい事象であり、かつ相互に変化する可能性を秘めているという点では同意だけれどね」
ガシャッ、と金網の軋む音がした。いつの間にか伸ばされた彼女の色白い手が金網を掴み、ギシギシと握ったり放したりしている。
「英語では恋も愛も『love』一言だろう? まあ正確に言えば恋は『in love』と言うべきだけども、両方とも同じ『love』だ。ドイツ語でもイタリア語でも、恋と愛は同じ言葉で表されている」
そうなのだろうか? 外国語に詳しくない俺は、そう言われても『へぇ』と感心する事しか出来ない。
「きっと、向こうの文化圏ではその二つに言葉としての差異を求めていなかったんだろうね。もしかしたら同じようなものという認識で、それ以上は特に気にしていないのかもしれないけど」
そう言う彼女の言葉にはわずかな悲しみと、そして憂いの感情が宿っているように思えた。いや、むしろこれは諦めだろうか。どうしようもない何かに対する、受け入れざるを得ないといった諦め。
だがそんな俺の印象とは裏腹に、続く彼女の言葉は強い意志を秘めたものだった。
「それでも、たとえどれだけ近しいものなのだとしても、やはりボクは二つは別物だと考えている。そこに明確な差異があるからこそ、『恋』と『愛』という二つの言葉が生まれているのだからね」
まるでそうでなければ困るとでも言いたげな口調だった。自らの考えに間違いはなく、それ故に自らの言葉は、行動は正しいのだと主張する。
時代の君臨者と同じような理論展開だ。
だが、俺はそれをとても彼女らしいと思う。だから俺は、何も言わない。ただ彼女の言葉を待つ。
「『恋』と『愛』は同じようで違うもの。そう――」
言葉を切った彼女は、やや躊躇うようなそぶりを見せた後、意を決したようにゆっくりとこちらへ振り返る。
夕日に染まるその顔に、俺は少しの違和感を覚え、すぐにその違和感が普段しているはずの眼鏡がないということに起因するのだと気がついた。
彼女の赤縁のアンダーリムは、綺麗に畳まれて半袖ブラウスの胸ポケットに納まっている。わずかばかり覗かせた透明なレンズが、夕日の光を受けてわずかに煌いた。
「今からそれを――」
俺を指さしながら不敵な笑みを浮かべ、
「証明して見せようじゃないか」
彼女は高らかに宣言した。
◆
普段疎かにしている部屋の片付けなんかをしていると、思いも寄らないものが見つかる事が多い。
「む……」
夏場の暑さをクーラーでごまかしつつ、引越しの準備のために部屋をひっくり返して必要不必要の選別をしていた俺は、部屋の隅に積みっぱなしにしていた段ボール箱の中から高校時代の卒業アルバムを発見した。
もう十年も前の代物だが、特に使う事もなくしまわれ続けていたせいかほぼ新品と同じような状態だ。
――まだあったんだな、こんなもの。
高校を卒業後、普通の大学に行ってそこそこの企業に就職して六年も社会人をやっていると、学生時代というものがいかに不思議な期間であったのかをしみじみと感じる事ができる。
「どれどれ……」
忘れ物を見つけたような感覚に興味を引かれた俺は、片付けを中断してアルバムを開いた。そこにはあの頃の自分たちの姿が納められている。
「おーおー若え若え」
自分もそうだが、いまだ付き合いのある連中の昔の姿になんともいえない思いが生まれる。変わらないようでやはり全然違う。時は残酷だ。
「……っと、クラス写真はこれか」
卒業クラスの写真で構成されたそのページ。恩師とは今も交流があるため、十年前の姿と今を比べ、髪の毛の薄まり具合に悲哀を感じる。
次いで、出席番号順にクラスメイトの写真を眺めていく。覚えている者もいれば全く覚えていない者もいた。そうして自分の番号になる、その一つ前。
「…………ふむ」
武藤風音、という名前の載った女生徒の写真が目に留まる。
艶のある黒髪をセミロングにおとなしくまとめ、綺麗な黒瞳をアンダーリムの赤縁眼鏡で覆っていた。
当時の俺と彼女の関係を言い表すとすれば、『幼馴染』という言葉以外にない。小・中・高と腐れ縁で、計十二年間で九年は同じクラスだった。
ちなみに大学まで同じになったのだから、もうなんと言っていいのか分からない。
まあこの時より未来の話はあれとして、こうやってアルバムという形に残る高校三年生の夏。俺はこの武藤風音とある賭けを行った。
それは親愛なる我が幼馴染にして、自分なりの哲学を持つが故に偏屈な、一人の少女の一方的な賭けに過ぎなかったのだけど、なかなかどうしてこの賭けは今の俺を作り上げた重要な因子でもある。
そう、あれは今から十年も前なのだ。夏休みを目前に控えたあの日。俺は風音によって屋上へと呼び出され、彼女の独論を聞かされたのだ。
◆
「証明して見せようって、いや、意味分からんのだが」
やけに仰々しい動作を付けてまでの宣言だったが、生憎と話が飛躍しすぎて俺には何の事かさっぱりだ。
そんな素直な気持ちを言葉にしたのだが、
「ふふん。そうだろうともさ。当然だ。ボクはまだ何も解説してはいないんだ。君がボクよりも早くボクと同じ答えに行き着いている可能性もなくはないだろうけど、まあ実際はありえないだろうね。ボクと違って君にはその答えを導く必要性がないんだ。人間、必要のない事には労力を割かないものさ」
風音は俺の言葉を鼻で笑い、またも長々となにやら雄弁に語ってきた。
――だからなんなんだよ。
言葉に出さない突込みを表情で入れてやると、
「ん? やあ、ごめんごめん。別に君を馬鹿にしたわけではないんだ。ただ、君がボクと同じ考えを持ってくれていたら、何もこんな面倒な真似をしなくてすんだのになと思っただけさ」
「それは遠回しに今回のこれは俺のせいだとでも言っているのか?」
「まさか。遠回しどころかストレートにそう伝えているつもりだよ、ボクは」
女の子のくせに西洋人の軽薄男がやりそうな肩すくめをしてみせる風音は、どこかいつもとは違う。眼鏡の有る無しではない。もっと根本的な違いだ。
俺の知っている武藤風音は、ひがな本ばかり読んでいる文学少女である。とは言っても、よくいるような根暗系のキャラではない。結構さばさばしているので男女問わず知り合いは多く、いわゆるボクっ娘という奴で一部にはマニア的な人気があるとかないとか。
……話が逸れたので元に戻そう。
さて、こいつはほぼ一日ごとに違った本を読み耽っており、そのジャンルはファンタジーやSFをはじめ、エッセイや詩集、自叙伝や伝奇などなど多様多岐に渡って法則性がまるで存在しない。
百数ページの薄い本から千を超える分厚いものまでとにかくありとあらゆる本を読んでいる。
そのせいなのかどうかは知らないが、学校の成績は上位三位から落ちたことがない秀才だ。授業中もろくに教科書を見ないで本を読んでいるくせに、テストはもちろん授業中に当てられても即答で正解を返している。
学力においては俺など比べ物にならないほどハイスペックな女だ。テスト前など別クラスからも知恵を借りに来る輩がいるほどだ。かく言う俺もその一人だったりする。
とまあこんな感じにちょっと跳び抜けた存在なわけだが、それがなんだってまた学校の屋上などというムーディーな場所に俺を呼び出すに至り、謎の口上を俺に聞かせるなんて真似をしているのだろうか。
しかも風音の言葉を借りればこんな事になったのは俺のせいだという。俺が何をした。
「ほらね。気が付いていないのだろう? 君が気が付いてくれないから、ボクはこんな事をしているのにさ。まあ、そこは追々教えてあげるよ。今は一先ず、黙ってボクの論証を聞いてくれたまえよ」
しーっ、と相手に沈黙を促すように人差し指を唇に当て、風音は微笑を見せた。なまじ見てくれが悪くないだけに不覚にもどきりとしてしまうが、何とか顔には出さずにすんだと思う。
「じゃあまずは質問だ。君は恋と愛の違いについて聞かれたら、なんと答えるのかな?」
そんな俺の葛藤を無視して、風音はくるくると指を回しながら俺に質問してきた。
おい。お前が証明するんじゃなかったのかよ。
「まあ慌てなさんな。まずは君の意見を聞いておこうと思ってね。ほらもし、そう万が一、いや天文学的な数値で間違いがあって、これからボクが言う事を君が理解していないだけで知っているという可能性を失念していてね。だから先にどう考えているかを聞いておきたいのさ」
あー、なんだろう。すごい馬鹿にされた気がする。馬鹿にされた気がするが、ここでいちいち突っかかっても時間の無駄だ。こんなものは早々に切り上げてもらうことにしよう。
「……そうだな。月並みな意見になるんだろうが、強いて言うなら恋は見返りを求めるもので愛は見返りを求めないもの、かな」
俺はどこぞの雑誌かインターネットか何かで拾ってきた知識で風音の問いに答えた。恋は下に心があって愛は真ん中に心があるから愛の方が貴いとか何とかかいてあったように思う。
そんな俺の借り物の答えに、しかし風音は真剣に耳を傾け、
「ふんふん。なるほどなるほど」
何度となく頷きながらぶつぶつと口の中で繰り返しているようだった。まさに吟味という奴だ。
そうしてしばらく俺の言葉を舌の上で転がしていたかと思うと、
「つまり君は恋は有償であり、愛は無償であると考えるわけだね」
突然話を振ってきやがった。まあ、別に焦るもんでもないわけだが。
「そういう事になるな。恋ってのは相手にも何かを求めたくなるもんだ。けど、愛っていうのはそうじゃない。ただ自分の想いを与える事、なんじゃねえかな」
これもどこぞの誰かの受けうりだ。世の中何が役に立つのか分からんもんだよな。適当にネットサーフィンしているだけでも妙な雑学は仕入れられる。
「なるほど。まあ確かにそれでも大方の人の同意を得る事が出来るだろうね」
そうやって俺の意見を一度は受け入れたように見えた風音だったが、こいつの本気はここからだった。
「けれど、それは恋と愛の違いを述べるに当たっては間違いだよ。確かに恋は有償で愛は無償に思えるかもしれないけど、それならどうして『無償の愛』なんて言葉が生まれてるんだろうね?」
うん? 『無償の愛』の何がおかしいんだ? 俺の言ったとおり愛は無償って事じゃないか。
「いいや違うね。『無償の愛』というのは読んで字の如く『無償』の『愛』なんだ。さて、君はさっき自分でなんと言ったかな?」
言葉遊びをしているような気分だが、とりあえずは相手の言う通りに自分の発言を思い返してみる。その主張を一言でまとめるなら、
「恋は有償で愛は無償だろ?」
こう言う他にはない。それは一番最初の時点で伝えてあるはずのことだ。何故もう一度説明しなければならないのだろうか。
そんな感じで首を傾げる俺に、しかし風音はクスクスと小さく笑うだけだった。そして、
「そうさ。恋は有償で愛は無償。……気が付かないかい? 君の理論では『愛』は『無償』を内包している事になるんだよ?」
……ふむ。確かに言われてみればその通りだ。行為を持ってその言葉を説明するのであれば、恋は相手に何かを求める好意で、愛は相手に何も求めない好意と言い換える事も出来る。
つまり、『恋=有償』『愛=無償』という等式が成り立つということになるわけで――
「あ……」
そこまで考えて、俺は風音が言わんとしている事に気が付いた。
そうだ。確かにこの理論で行くと『無償の愛』という言葉はおかしいものになってしまう。
「分かったかい? 『愛』が『無償』を内包しているのであれば、わざわざ『無償の愛』という言葉を作る必要なんてないのさ。だって『愛』という言葉を『無償』という言葉に置き換えるのだとすれば、『無償の愛』は『無償の無償』となって意味不明な二重表現になってしまうんだからね」
右手と左手でそれぞれの言葉を示しながら、最後に風音はお手上げという感じで両手を挙げた。
「そうさ。愛は無償なんて嘘っぱちだよ。恋が有償であるのは相手に対する欲望があるからだけど、愛だって相手に対する欲望を内包しているんだ。それを知っていたからこそ、先人は『無償の愛』という言葉を作ったのだろうからね」
上げていた手を下ろし、風音は優雅に腕を組む。実は隠れ巨乳という噂のある胸の前ではなくお腹の前で腕を絡めているが、その仕草がなんとも艶かしい。
そう感じてしまったせいか、俺はわずかに視線を風音から逸らさねばならなかった。
「ボクに言わせれば、愛よりも恋の方がよほど無償だと思うよ。欲望のない恋は相手のためなら何でも出来る、打算を差し挟む余地もないほどに人を盲目にしてくれるのだからね。それはとても純粋で、どこまでも一途な想いさ」
ため息を吐くように、風音が言葉を紡いで行く。
チラリと横目に見た限りでは、どこか遠くの空を眺めているようだった。実に哀愁を誘う光景である。
「けれど人は欲望を持つ生き物だ。だから、何をどうしたって相手に何かを求めてしまうものだよ。だから、有償無償で恋と愛を分ける事は出来ない」
そう言って、風音は俺の主張に対する反論を終えた。
俺が研究者か何かだったらここで更なる反論を展開するところなのだろうが、先の主張自体借り物である。当然俺に風音に対する反論の持ち合わせなどあるはずもなく、仕方無しに、
「じゃあ、お前は何をもって恋と愛を別のものだと定義するんだ?」
拗ねた子供のような問いかけをする以外に道はなかった。
そしてこの質問に対して風音は、
「簡単な話だよ。ボクは恋と愛の違いはそれを向ける事の出来る対象の数にあると考えている」
事も無げにそんな持論を展開し始めた。
「対象の数?」
「そう。例えば『愛』だけど、これの対象は驚くほど多く、そして広いんだ」
先ほどにも増して饒舌になった風音は、身振り手振りも交えてダイナミックに語り始めている。
「単純に考えただけでも人が愛を向ける対象は親、兄弟、親戚、ペットなどなど老若男女どころか人以外にも及ぶ。そして、その全てを人は同時に愛する事が出来るんだ。まあ比重の違いはあるだろうけどね」
そこまで一気に説明して、風音は突然人差し指を立てて見せたかと思うと、ゆっくり左右に一往復させた。
「けれど『恋』は違う。これの対象は常に一人、特定の誰かなんだよ。二人、三人に同時に恋をする事は出来ない。仮に出来るという人がいるとして、ボクはそれを恋とは認めない。それは恋にかこつけたただの独占欲って奴さ」
最後の部分はまるで吐き捨てるような感じだった。
なんだろう。こいつは過去に尻軽女に嫌な目にでも合わされたのだろうか?
そんな俺の感想をよそに、風音の演説は続いて行く。
「恋っていうのはさ、一種狂ってる状態なんだ。だから細かい計算なんて出来やしない。二股三股なんて神経使うものを上手く出来るわけがないよ。そして上手く出来てるというのであれば、やはりそれは恋なんかじゃない。冷静に捌けているのだからね」
「無茶苦茶だな」
俺は思わず突っ込んでいた。
恋が狂っているようなものだというのは分からなくもないが、だからといって計算出来なくなるものでもないと思うぞ。
「無茶苦茶なもんか。それに『恋』はその人の感情の最上位に位置するものなんだよ? その対象が複数あったら序列が生じてしまうじゃないか。序列が生じた時点で最上位にないものは『恋』じゃないんだよ。例えば君は同時に二人からまったく異なるお願い事をされて、それを同時に過不足なく叶えてやる事は出来るかい? 物理的に不可能だろう?」
そりゃまあ確かにそうだ。俺はいたって普通の人間で、どこぞのフィクションよろしく影分身なんぞ出来はしない。もちろん水分身も砂分身もだ。
一人しかいない以上、同じ場所でならまだしも違う場所で同時に何かをする事は不可能だ。どちらかを先に片付けるより他にない。
「だろう? その点、最初から対象が複数である『愛』は序列を付けることが前提だから問題はない。君にとって優先度の高い方の願いから叶えてやればいいのさ」
ふむ。同時にやらなくてもいいという事であれば確かに何とかなる。
……なるほど、それが愛の比重という事か。
「その通り。恋と愛の明確な差異はその対象にあるんだ。だから、ボクは恋≠愛を提唱する。この二つは恐ろしく似ているけど、まったく異なるものだ」
ばっと両手を広げて停止する風音。どうやら今ので彼女の持論展開は終了ということらしい。
うん。確かに『恋』と『愛』が違うものであるっぽいと言う事は理解した。理解はしたが、
「で、それがなんなんだ? 結局俺がここに呼ばれた説明にはなってないぞ」
俺は突っ込みを入れざるを得ない。風音の話を一通り聞いたところで、俺がこの場にいることに関しての説明は皆無だったのだから。
そんな俺の指摘に対し、
「それはこれからの話だよ。先に言ったけど、ボクは君のせいでこんな回りくどい説明を先にする羽目になったんだ。君があんな事さえしなければ、万事上手くいくはずだったんだから」
風音はぷくっと頬を膨らませてなにやら俺に対して不満をぶつけてきた。
おい。さっきからなんなんだ。何故俺が理不尽に責められなきゃならんのだ。
「……ボクと君の関係を、一言で表すとなんになる?」
ちょっと拗ねたような口調で、風音がうつむいて上履きのつま先で床をこつこつ叩きながら質問を投げてきた。
「何ってそりゃ、幼馴染、だろ?」
いまさら確認するまでもない事だ。家が近所で生まれた時から家族ぐるみの付き合いがある。そんないたって普通の幼馴染だ。
「うん。その通り。ボクと君は十八年来の幼馴染だ」
つま先で床を叩くのを止め、風音はすっと顔を上げて俺を見た。強い意志の宿った瞳はしかし、どこか儚げな印象を受けた。
「でもさ、普通の幼馴染ってこんなに長く続かないんだよ。特に異性の幼馴染なんてのはね」
再び風音が俺から目をそらす。どこか苦しそうに顔を歪めているのは、まるで自分自身の言葉に傷ついているかのようだった。
何故彼女はそんな辛い思いをしてまで言葉を紡ぐのだろうか。俺には分からない。
「男女それぞれに別々の付き合いもあるし、途中で経験する思春期の頃に疎遠になってそれっきりというのがおおよそのパターンさ」
その手の話は友人から何度となく聞いたことがある。いまだに交流のある俺と風音みたいな関係は珍しいのだと。
「でもね、そうならない幼馴染もいる。そういうのってどういう場合だか分かるかい?」
風音の言葉を聞いて、なんとなくだが俺は相手の言いたいことを理解した。それはよく周りから茶化されるときに言われる内容と同じものだろう。
それが分かったから、俺はただ黙って風音を見る。いつの間にか視線を戻していたあいつと俺の視線が、ほんの一時の間絡まりあう。
「そう。幼馴染の片方か、または双方が相手をちゃんと異性として見ている時だよ」
俺の視線から俺の意思を感じ取ったのだろう。風音は躊躇う事無くそんな事を言ってのけた。
相手を異性としてみる。それは俺が風音を見る事ではない。
「そうさ。君はそうじゃなかったみたいだけど、ボクはずっと君を見ていた。君を、一人の男性として捉えていたんだ」
面と向かって言われると結構来るものがあった。今までただの幼馴染としてしか認識していなかった奴が、ずっと自分の事を好きだったなどといきなり言われても正直困る。
それに、俺にはれっきとした彼女がいるのだ。今月の初めから付き合い始めたばかりだが、俺にはもうすでに恋する対象がいる。
「そこだよ」
「あん?」
「そこだと言ったんだ。ボクが今日君を呼び出して、なおかつあんな演説までやってのけたのは、単に君のそれが原因なのさ」
風音が強調する『そこ』というのは、もしかしなくても俺の恋人の事をさしているのだろう。
さて、俺に恋人がいる事が何故屋上に呼び出されてご高説賜る流れにつながるというのだろうか?
まったく分かりませんという顔をしてやると、風音はふふんと鼻を鳴らして、
「君が件の彼女に恋をしているというのは分かっているよ。散々聞かされたからね。それを分かった上で、ボクは君に要求したい。どうかボクを愛してくれないか、とね」
ボクの胸に飛び込んでおいでと言わんばかりに風音が両手を差し出してきた。
うん。まったく意味が分からない。というか、俺には恋人がいると何度も言っているわけなんだが?
「それはこっちの台詞だよ。それに、言ったじゃないか。恋と愛は別物なんだよ。恋人という存在がいる以上、ボクは君に恋してもらう事は出来ない。けれど、愛してもらう事は出来る。それが、愛というものなのだからね」
おい。もしかしなくてもさっきまでの口上は今この瞬間のための壮大な前振りか。だから先に説明しなきゃならないなんて言ってたってわけか。
「その通り。さあ、ボクを愛してくれたまえ。その見返りにボクは君を愛し、そして恋し続けようじゃないか」
何も問題はないだろうと言わんばかりの笑みを向けられているわけだが、生憎と俺はそこまで達観している人間ではない。
例え『恋』と違って『愛』が多数へ同時に向けられるものだとして、恋人のいる俺が他の異性に『愛』を向けるのは浮気以外のなにものでもない。
俺はそういった裏切り行為を認めない。男の都合で恋人を傷つけるような真似はしたくない。
「……うーん、じゃあ賭けをしよう」
「賭け?」
いきなり今度は何を言い出したのかと思えば、賭けと来た。一体何の賭けだというのか。
「ボクは今日から卒業の日まで君にモーションをかけ続ける。その結果として最低限君の愛を得られなければすっぱり諦めようじゃないか」
おい。
「安心したまえ。ボクはあくまでフェアに行くよ。君と恋人との間を故意に裂くような工作は一切しないし、君と恋人が予定を持っている日には邪魔もしない。ボクはあくまで君の空き時間を使って攻略させてもらうよ」
ちょっと待て。なんかわけ分からん事になってるぞ。それに、
「攻略ってお前ゲームじゃねえぞ」
「ふふん。ボクにとっては同じようなものさ。それに過程はどうあれ結果として君を手に入れられればそれでいいのだからね。細かいものは気にしないさ」
細かいところも少しは気にして欲しい。いや、それ以前にこの賭けって相手の目的が分かっている以上圧倒的に俺の方が有利だ。勝負にならない。
「フェアにと言っただろう? 君はボクの好意と目的を知った状態で対処すればいいのさ。今の恋人のためにボクを邪険に扱うもよし。今まで通りに接して距離を保つもよし。もちろんボクの押しに負けて若いリビドーのままにボクを抱いてくれても構わない。むしろボクとしてはそちらを希望する」
「ふざけろ」
というか少しは慎め。女の子が大っぴらにそういうことを口にするもんじゃない。
「心外だな。ボクはいたって真面目だよ。本気で君を愛し、君に恋しているのだから。君に抱かれるならこの上ない幸福さ」
心底そう思っていることが分かるほど大真面目に風音がそんな事を言う。
そのストレート加減に俺の方が恥ずかしくなってしまった。
「まあ、今日のところは宣戦布告だけでいいんだ。恋≠愛の論理だって布石の一つに過ぎないんだからね」
「布石?」
「そうさ。君に恋人がいるから諦めてくれという逃げ口上を使わせないためのね」
クスクスと風音がしてやったりといった笑みを浮かべる。
確かに、風音の口上を認めてしまった以上それを理由に逃げ切る事は出来なくなっている。
「最初は愛人で構わないさ。ああ、そういえば愛人って見事な言葉だよね。愛する人はいくらいたっていいんだからさ」
それはまるで賭けに自分が勝つことを確信しているような口ぶりだった。
だから俺は相手に冷や水をかけてやるつもりで、
「俺は賭けに乗るとは一言も言ってないぞ」
「……そうだね。だけど、ボクは君の意見を尊重するといったつもりはないよ。今この瞬間から、ボクの賭けは始まっているんだ。そう、さっきは宣戦布告だけでもいいって言ったけど――」
ふわっと、さわやかな香りが俺を包んだ。
次の瞬間、俺の唇に何かが触れる。それはとても柔らかく、瑞々しく、甘かった。
目の前に目を閉じた風音の顔がある。さわやかな香りは、彼女の髪から香っているようだった。
時間にして二・三秒程度経っただろうか。風音の細い指が俺の両肩を軽く押し、その反動で俺と彼女の唇は離れてしまった。
――って――
「なっ、なっ、何してんだお前!」
ほんの一瞬名残惜しさを感じた直後に我に帰った俺は、思わずおもいっきり後ずさりをしてしまっていた。瞬間的に顔が赤くなったのが分かる。夕日がオレンジ色をしていなければさぞよく分かる赤面振りだろう。
「これくらいのショートカットはしておかないとね」
対して風音はぺろりと舌を出しながらニヤニヤと笑っている。何か非常に負けた気がした。
「お、お、おま、お前――」
「じゃあボクはこれで退散するとしよう。明日からも気を付けなよ? ボクはこう見えて押しが強い女なんだ」
上手く言葉が出なくなっている俺を尻目に、風音はその名前の一時の通りさっさと屋上からいなくなってしまった。バタンと閉じられる扉の音が殺風景な屋上に響き、すぐに霧散する。
ただ一人残された俺は、がっくりと肩を落とす。そうして、うつむいたままそっと自分の唇に触れる。
鼻に残るさわやかな香りと、口に残る瑞々しく柔らかな感触。そして温もりと甘さ。その残滓がまだ俺を支配している。
「お。早速脈ありかい?」
「んなっ!」
弾かれたように顔を上げた先には、扉から頭だけを出してニマニマしている風音がいた。
――見られた!
一瞬で頭に血が上り、引きかけていた赤味が再び俺の顔を染め上げる。
「ば、ちが、これは――」
「オーケーオーケー。みなまで言う必要はないさ。さあ、ボクはここにいるよ。好きなだけ貪るがいいさ」
プツン、と俺の頭の中で何かが切れたような気がした。
「てめえは何も分かってねえええっ!」
「うははは」
自分でもこんな速くで動けるのかという勢いで俺は風音へと肉薄するが、あいつはあいつでいち早く頭を引っ込めるとご丁寧に扉まで閉めて逃げて行く。
俺が扉開けて校舎内に入ったときには、その姿はすでに踊り場を折り返して三階の廊下へ至ろうとしている所だった。
「捕まえてごら~ん」
「ざけんなちくしょう! ちょっと待てコラ!」
完全に頭に血が上った俺は、この後学校中を走り回ることになる。無駄に運動神経がいい風音を捕まえるのは容易ではなく、結局俺はへとへとになるまであいつとの鬼ごっこに興じる羽目になった。
それはあいつが一方的に賭けを持ちかけてきた日で、流されるままに俺がその賭けに乗ってしまった日でもある。
そんなちょっとだけ特別な、とある夏の日の出来事だった。
◆
うん、あれは最悪だった。部活で校内に残っていた連中にはばっちり見られてしまい、次の日にはもう噂になっていた。
野郎どもは俺を囲って根掘り葉掘り聞き出そうとするし、女子連中は女子連中であいつに根掘り葉掘り聞いていた。
あいつは「幼馴染というもののあり方について話しただけ」とかわけのわからない事を言っていたが、俺との仲を勘繰らせるには十分過ぎる発言だ。
当時俺が隣のクラスの女子と付き合っているということはオープンな話だったので、当然俺の二股疑惑が浮上する事になる。最終的には疑惑も晴れたが、あの一週間は気が気ではなかった。
それもこれもあいつのせいなのだが、今にしておもえば全てあいつの掌の――
「それ」
「うわっとお! うひゃ!」
背後から急に飛びつかれ、加えて右の耳を甘噛みされた俺はなんとも情けない声を発してしまう。
「ふふん。相変わらず君は後ろから攻められるのが弱いんだね。そういえば手でしてあげる時も背中に回ってあげた方が勢いがあったっけ」
「こらてめ、止め、ろって……」
「止めて欲しいならもっと抵抗したまえよ。今の君を見てその言葉を信じてくれる人が、はたして何人いるかな」
じわじわと怪しい手つきが俺の身体を這って行く。
相手の言う通り状況を脱するには力任せに引き剥がせばいいのだが、生憎とそれをする事は出来ない。何故なら――
「おま、お腹に子供いるんだからちっとは静かにしてろって」
「うん? なんだ。抵抗が弱いと思ったら、ボクの事を心配してくれているのかい?」
なんとも拍子抜けだと言って、背後からの襲撃者はぱっと俺から離れていった。
やれやれとため息を吐きながら座ったまま身体を振り向かせると、そこにはノースリーブのワンピースを来た髪の長い女がいる。赤い縁のアンダーリムを鼻に引っ掛け、口元はニヤニヤとしていた。
「お前な、その年で一人称が『ボク』っていうのはどうかと思うぞ」
「ふふん。ちゃんと第三者がいかねない場所では『私』といっているさ。ボクがボクの事をボクと言うのは――」
すっと、彼女が俺の方へ身を乗り出してきたかと思うと、そのまま俺は彼女の口で口を塞がれた。
ちょうど昔の事を思い出したばかりの俺は、そのときの瞬間と今を重ねてしまい、年甲斐もなく顔に熱を持たせてしまう。
固まって動けない俺は彼女の行為をただ受け止めるだけで、あの時とは違ってたっぷり十数秒の口付けを享受する事になった。
ややあってから彼女は俺から離れると、ぺろりと自分の唇を舐め、
「君の前でだけだよ」
ささやくようにそう言った。
くそう。昔を思い出した直後でもなければここで一言あったところだが、悲しいかな頭が真っ白に近い今では何も思い浮かばない。
「……あれ? ボクとしてはここで君から何かあると思ったのだけれど、何もないのかい?」
彼女も同じ事を考えていたのか、沈黙する俺に対し不思議そうに首を傾げている。
「ふーん……。それじゃあ――」
言いながら、再び彼女が俺に接近。今度はずいと両手を伸ばして俺の肩に触れると、そのまま一気に体重をかけてきた。
「うおっ……」
胡坐をかいていた俺に彼女を支える準備などなく、押されるままに床に倒れこんでしまった。後頭部を強打しなかっただけ儲けものだが、倒れた俺の上からは彼女がのしかかってきており、そのまま再び口を塞がれてしまった。
もう抵抗する気にもならない。
されるがままに任せて、俺も彼女の体に手を回し、その細い身体を抱き締める。
どれだけそうしていただろうか。飽きたのかどうか不明だが、彼女が唇を離すのに合わせて、俺も彼女の拘束を解いた。
彼女の体が俺の上からいなくなるのを確認して、俺も上体を起す。
彼女はすぐそばにあったクッションの上で正座をしていた。今の今まで熱い口付けと抱擁を交わしていたというのに、その顔に余韻もなければ火照りもない。
何か俺だけひどく損をした気分だ。
「ああ、なんともないように見えるかもしれないけど、ボクはこれでもぼーっとしているんだよ? こんなに長くキスをしたのはいつ以来だろうね」
「さあな。少なくとも高三の時はしなかったな」
言ってから、俺はしまったと後悔した。昔の事を語るのに何で高三まで戻る必要があるというのか。これでは俺が当時の事を思い返していた事が丸分かりになってしまう。
「……ああ、そうか。君はさっきまでアルバムを見ていたんだっけ」
そう言うと、彼女は俺が放り出してしまった卒業アルバムを手元へ引き寄せると、懐かしそうにページをめくり始めた。
「そう。そういえば君に賭けを持ちかけたのはまさに高三の今頃だったね」
ポツリと、昔を懐かしむように彼女が口を開く。彼女はパタンとアルバムを閉じると、そっと床の上に置いた。
そして、ゆっくりと視線を俺に向けると、
「ボクは今だって君を愛しているし、君に恋をし続けているんだよ?」
君はどうなんだい? という言葉が言外に含まれていることは明白だった。ちょっと気に食わなくもないが、まあ俺の答えも決まっているのだ。何も臆する事はないだろう。
「俺もそうだよ。俺はお前を愛しているし、お腹に宿る子供も愛している。けれど、恋をしているのはお前にだけだ。そう、だから――」
今度は俺の方から彼女の唇を奪う。散々やった後だからほんの啄ばむ様なキスだけど、彼女を驚かせるには十分だろう。
そうして狙い通りに驚く彼女に満足して、俺は締めの言葉を口にする。
「――俺たちは今でも正しく、恋愛をしているんだよ」