チョコレートチョップ
バレンタインデーが間近に迫った頃。
日本の片隅にある小さなスーパーマーケットでも、商戦を逃すまいと、新たなキャンペーンの打ち出しに頭を悩ませていた。
「とにかく、普通にやったのでは新たな顧客は生まれないわ!」
会議の席でそう強気に言い放つのは、食品売場を担当する麻生だった。
彼女が新規顧客の獲得を声高に叫ぶのには訳がある。というのも、数年前、近隣にオープンした巨大ショッピングモールの影響で、このスーパーの売上は下降の一途をたどっているのだ。年末商戦、年始商戦でも当然のごとく敗北を喫している。何とか一矢報いるべく、麻生はこのバレンタイン商戦に賭けていた。
「でも、どこにターゲットを持って行くんです?」
新人の御手洗が質問した。
バレンタインの中心購買層は、言うまでもなく十代から二十代の女性である。問題はその世代の顧客をモール側に奪われているところにあった。
麻生は細身の眼鏡をクイと持ち上げ、御手洗に鋭い視線を投げかけた。
「それをここで話し合うんじゃない」
麻生は突き刺すように言った。その語気に気おされ、御手洗は思わず首を引っ込めた。
「ご機嫌ななめだな……」
「何か言った!?」
「いえ……」
御手洗が思わず呟いた言葉を、麻生は聞き逃さなかった。だが、御手洗には彼女が不機嫌である理由がよく分かっている。
麻生は、自らその不機嫌な理由を苦々しげに口にした。
「まったく。大体、どうして会議だというのに二人しかいないのよ!」
「みんな用事があるって……」
「みんなって……」
麻生の眉間に皺が寄った。
「桜井は?」
「デートです」
「坂崎は?」
「デートです」
「高見沢は?」
「デートです」
麻生の奥歯がギリギリと鳴った。
スーツ姿の肩をワナワナと震えさせ、込み上げる怒りを必死に耐えている。
「なんで彼氏のいない私がバレンタインデーの企画を考えて、やつらがデートしてんのよッ!」
「え、先輩って彼氏いないんですか?」
言った途端、麻生の渾身のチョップが御手洗の頭上に落ちた。
「ギャア! 痛い!」
「ナメたこと言ってるとぶん殴るぞ!」
もう殴ってるし……という言葉を、御手洗は辛うじて飲み込んだ。
だが、チョップを叩き込んだことで多少気が晴れたのか、麻生は深く息をつくと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「もういいわ。御手洗くん、二人で考えましょう」
「はあ……」
気のない返事の御手洗を気にかけるでもなく、麻生は後ろのホワイトボードに書き込みはじめた。
「まずターゲットね。本来なら中高生女子をターゲットにもってくるのが定石なんだけど、普通にやったんじゃあのモールには勝てないわ」
「でも、バレンタインデーにそれ以外の年齢層を狙うのは厳しいんじゃないですか?」
御手洗の言葉に、麻生はため息をついた。
「あなた、何にも知らないのね。最近じゃ、逆チョコに代表されるように、従来の考えにとらわれない手法で顧客の拡大を狙うのは常識なのよ」
「逆チョコって、男から女の子にチョコを贈るってやつですよね?」
そんな奴いるのか……という顔をして、御手洗は腕を組んだ。
「その他にも友チョコっていうのがあるわね。女の子どうしでチョコを贈りあうの。まあ、これは中高生が中心だから、ウチでの採用は難しいでしょうけど」
「いや、もうそれでいいんじゃないですか? まだ友チョコを知らないって子もいるでしょうし……」
麻生は首を振りながら、またしても深いため息をついた。
「わかってないわね。それくらい今時の女子には当たり前なの。それに、何度も言うけど、普通にやったんじゃ勝てないのよ」
そんなにヒネらなくてもいいんじゃないか。
御手洗はそんな風に思わないでもなかったが、どうやら麻生は新企画にこだわっているらしい。
何かしらひねり出さなければ、この会議が延々と続くことになる。御手洗はどうにか会議を前に進めるため少ない時間で知恵を絞った。
「麻生先輩。じゃあこういうのはどうです」
御手洗はペンを取ると、ホワイトボードに書き込んだ。
「自チョコ? なにそれ」
麻生は頬に人差し指をあて、小首を傾げた。それに対し、自信満々に御手洗が説明する。
「自分に買うためのチョコです。たとえば、彼氏のいない先輩のような……」
すかさずチョップが飛ぶ。
「ギャン! 痛い!」
「独り身で何が悪い! てめ、ナメってっと本当にぶん殴るぞ!」
だから、さっきからもう殴ってるし……。そう言わんばかりの御手洗は涙目である。
「だいたい、自分に買うチョコって、普段どおりで、バレンタイン関係ないじゃない!」
「じゃ、じゃあコレはどうですか」
御手洗はふたたびホワイトボードに書き加えた。
「腐チョコ? 何、腐ったチョコを売るわけ!?」
麻生がまたしても手刀を振り上げた。あわてて御手洗が説明する。
「ち、違います。これは先輩のように、アニメが大好きな腐女……ズギャン!」
当然ながら、振り上げられた手刀は御手洗の頭上に落ちた。
「先輩、痛いッス!!」
「誰が腐女子だ! あたしはちょっとボーイズラブが好きなだけだもん!」
いや、それで充分に……と言えば、またチョップを食らうであろうことは、さすがに御手洗も学習した。
「じゃあ先輩も何か案出してくださいよ。女の子の気持ちが分かるのは、やっぱり先輩みたいな女の子でしょう?」
「女の子……って。あたし、もう二十歳よぅ」
そうは言うものの、まんざらでもなさそうな麻生。御手洗は少し機嫌を持ち直した麻生のため、
「もう三十路じゃねーか」
という言葉は言わないことにした。
それはともかく、新たな顧客に響くような企画にこだわっているうえ、女性である麻生しか突破口はない、と御手洗は内心で結論付けた。
というか、もう殴られたくなかった。
「ぜひ先輩のアイデアを聞かせてください」
「そうねえ……」
麻生は、腕を組んで右手をあごに当てた。
こうしていれば、麻生は細いスーツに身を固めた格好いいキャリアウーマンであり、良く似合っている眼鏡も、彼女の知的な印象を強めている。後ろでざっくりとまとめた髪も、活動的で実に若々しく、実際の年齢は三十を過ぎているが、見た目には二十代の半ばと言っても充分に通用するであろう。
また、ひそかに大きな胸の持ち主であり、肩がこるという悩みも、それに由来しているのは疑いようがない。
顔だって美人だし、スタイルだっていい。どうしてこれでいまだ彼氏がいないのかが不思議でしょうがない。そう思いながら、御手洗は麻生が考えている姿に思わず見とれていた。
本当を言えば、御手洗はずっと彼女に憧れを抱いていた。誰も出席しない会議にわざわざ出たのだって、彼女と一緒にいたいから、というのが理由である。
何とか彼女との距離を近づけたいと思った御手洗は、勇気を振り絞った。
「せ、先輩、考えがまとまらないんでしたら、シーンを想定してみるっていうのはどうです? その……より具体的に考えられると思うんですけど」
「たまにはマトモなこと言うのね。シーンって例えばどんなの?」
御手洗はごくりと唾を飲み込んだ。心臓が急にバクバクと音をたて始めている。
「ぼ、僕にチョコをプレゼントするとしたら、どうです?」
「え!?」
相当に意外だったらしく、麻生はビクりと身を固くした。
「先輩……」
潤んだ目で御手洗は麻生を見つめる。麻生も、じっと御手洗を見つめ返していた。
二人とも真剣な眼差しだった。
無言の時間が流れる。
御手洗の額に汗がにじんだ。麻生は組んだ腕にギュッと力を入れている。
「御手洗くん……」
麻生はペンのキャップを取ると、ホワイトボードに書き込んだ。
「なになに……。エアチョコ?」
「中身の入ってないチョコよ」
ばーか、と言ってから麻生は少女のように悪戯っぽく笑って見せた。