4.馬鹿なことを言わないで 1
アマーリエのシュヴァルツ城での生活が始まった。
一言で言うなら、不便。それ以外に言うことはない。
「電気! 電気を引いて!」
アマーリエの再三のお願いを無視しまくっているのは、ちゃっかり城主っぽく振る舞っているアルトリートである。
「俺は別に必要じゃない。それにおまえが困っているのであれば、それもまた都合がいい」
大きな書斎と立派な椅子。オットマンに磨かれた靴を乗せてくつろいでいるのは、輝かんばかりの濃金髪とチョコレート色の瞳をした悪魔だ。
多少、最近の服装を取り入れ始めたアルトリートは、今日も仕立てのいい白いシャツに黒いズボン。最初に会った日とどこが違うのかとアマーリエは思ったのだが、アルトリートの中では何かが違うらしい。
どうだと聞かれた時には、思い切り頭を傾げてしまった。
彼の手には、アマーリエが仕事に行ったついでに町で買ってきた雑誌が開かれている。どうやらそれを参考にして服装を整えているようなのだが、はっきり言って彼は何を着ても似合うのだ。決して褒めるつもりはないのだが、事実なのだからしょうがない。
「あなたは悪魔だから夜目がきくのかもしれないけど、私には見えないのよ。この部屋に来るまでに何度転んだと思っているの? 階段から落ちてもいいの?」
「おまえが怪我をしようが知ったことではないが?」
視線は雑誌に注がれたまま、気のない返事が返ってくる。
アマーリエは頬を膨らますと、腰に手を当て一気に言い放った。
「そうね。じゃあ私が死んでも構わないわけね? 打ちどころが悪ければあなたに復讐する暇を与えず死んでしまえるというわけだわ」
鼻で笑って言うと、アルトリートの瞳がやっとこちらを向いた。
「おまえは馬鹿か? 燭台があるだろう。……いや、懐中電灯と言ったか。あの便利な代物があるじゃないか」
わざわざ暗闇の中、文句を言いに来るとは結構なことだ、と続けられ、アマーリエは不覚にもすっかりその存在を忘れていた。
まさか悪魔にそれを指摘されるとは。
だが、ここで負けるわけにはいかないのだ。
ぐっと握りしめた拳に力を入れると、ようやく合った瞳を睨む。
「でも部屋が暗いのよ。今時の人間は夜が遅いの。夜明けと共に働くような昔の人間とは違うのよ」
「――メレディスが起きるのは昼前だったな」
昔の貴族は一体どんな生活をしていたというのだろうか。というよりも、今は貴族でなく、ただの庶民。規則正しく生活しているのだ。夜明けと共に、はさすがに働かないが、何の楽しみもなく働いているわけではない。せめて夜ぐらいは自分の時間に使いたいものだ。
ムッとしたまま目の前の悪魔を見ていると、アルトリートは雑誌を閉じ、ニヤリと笑いながらこちらを見上げた。
「なにかと引き換えなら、電気とやらを引いてやってもいいぞ」
「なにかって……」
「俺は『悪魔』だからな。取引が条件だ」
提示された言葉は、かなりの譲歩なのかもしれないが、アマーリエにとって取引する『なにか』はないのだ。
財産もなければ才能もない。果たしてアルトリートの満足する『なにか』を持っているのだろうか。
「……例えば?」
「おまえには復讐しなければならないから命を貰うわけにはいかないか……。だとするとそれ以外だな。死なない程度というと……目一つでどうだ?琥珀の瞳は珍しいからな」
何だったら今すぐ抉ってやろうか、とアルトリートは真顔で言ってくる。アマーリエはすかさず三歩ほど後ずさった。
「ば、馬鹿言わないでよ」
「そうか? 目一つぐらいで電気を引いてやろうなんて親切な悪魔は俺ぐらいなもんだけどな」
そう言って、もうこの話しに興味が失せたのか、椅子に身を沈める。
「とにかく、何かと引き換えだ。引き換えてもいいものが決まったら言え。考えてやる」
もう話すことはないと目を閉じた悪魔をしばらく眺め、これ以上は無理か、と諦めると仕方なく書斎を後にした。
書斎から出ると、燭台に明かりと灯したヨハンが廊下に佇んでいた。
「部屋までご一緒します」
ニコリと笑う銀髪の少年に、アマーリエは頬が緩む。
「本当にあなた『は』優しいわね」
「誰と比べているんですか?」
分かりきっていることを聞かれ、声を出して笑う。
ここでの生活の補佐をしているのはヨハン一人だ。洗濯から掃除、食事の支度まで全て彼がやっている。
一度、アマーリエも手伝おうとしたのだが、あまりにも初歩的なことさえ出来ずに、結局は邪魔をしていることに気づいてからは手を出すのを止めおいた。食事を作るのに、かまどの薪一つ、火が点けられないのだ。ヨハンはアルトリートの使い魔であるため、指一つで薪に火をつける。それを目の当たりにすれば、結局は足手まといでしかないと気づかされる。掃除をしようにも掃除機がないのだ。というか、掃除機を動かす電気がない。
散々な目にあってからは、日中はパン屋に働きに出ている方が自分の精神が健康的に保てることに気づいた。
隣を歩いている少年を見下ろす。
パッと見た目は普通の少年に見える。使い魔とはどんなものなのかよく分からないが、アルトリートは決してヨハンを邪険に扱ってはいない。むしろ二人の関係はただの主人と使用人にしか見えない。
「あなたも電気があった方が便利だと思わない?」
「……電気というもののない生活に慣れてますから。むしろ電気があるとどう便利なのか分からない」
その返答に、もしかしたらアルトリートもそうなのかもしれないと考える。
ならばその便利さを知ってもらう方が早いかもしれない。
「それなら、ヨハンも町に行ってみましょう? きっと珍しいものがたくさんあるわ」
我ながらいい提案だと思った。
だがヨハンは遠慮気味に、でも、とこぼす。上目づかいにこちらを見ているその様子から、ヨハンが町に興味がないわけではないことが窺えて、余計にでも嬉しくなる。
「ご主人さまに聞いてみないと……」
「だったら、もしアルトリートがいいって言ったら、今度、私が休みの日に遊びに行きましょう? おいしいものいっぱいごちそうしちゃう」
良く考えれば、最近食卓に上ってくる食事は、固い黒パンに野菜の煮込み料理が主だ。ヨハンの作る料理が決してまずいというわけではないが、料理の種類を知らないのではないだろうか。それならば、色々と目で見て味わってみるのも一つの手だ。
それにアパートを引き払った為、給料はすべて手元に残る。相続税の支払いも済んでいるので、今のところ借金もない。
貯金が出来る身分になったのは人生初だ。
そう話しているうちにアマーリエの部屋についた。
「約束ね」
ヨハンから燭台を受け取り、部屋の前で別れる。ヨハンは使い魔だから暗闇でも明かりは必要ないのだ。
ヨハンが頷くのを見届けてから、アマーリエは上機嫌で扉を閉めた。
アマーリエの住んでいる町はシリングスという。かつては交通の主流だったシリン川の川沿いに発達した町だ。メレディス家も当時、川で荷を運ぶ船から通行税を取っていたらしい。というのも、なぜか隣を歩くアルトリートから聞いた話だ。
太陽の光に輝く濃金髪は、これ以上ないというぐらい目立っていた。しかもその顔立ちは、こんな田舎町では見かけないほどの極上の部類に入る。体形もスラリとしていて高く、それでいて細すぎない。見たわけではないが、きっと無駄な贅肉など付いていないに違いない。なにせ悪魔なのだから。
「どうしてあなたまで付いてくるの……」
苦々しく吐き出したアマーリエに、それは嬉しそうに笑って見せたのはヨハンの隣に立つアルトリートだ。その笑顔はどこか含みがあるように見えるのは勘ぐりすぎだろうか。
「おもしろそうだから?」
絶対に違うと言い切れる。アマーリエを困らすために違いない。
天気がいいため川沿いにあるカフェは皆、店の外にテーブルを並べていた。冬も間近に迫った秋晴れの休日は、それなりに人出があるようで、昼食を軽く取るつもりでそのテーブルの一つについたのだが、その一箇所がなぜだか異様に視線を浴びているのは絶対に、目の前に座る悪魔のせいに違いない。
時折吹く風が濃金の髪をさらい、長すぎるのではないかという足を無造作に組んで座る姿は、雑誌の中のモデルのようだ。無意識なのか意識してなのか、口元に緩く描く弧は魅惑的で、女性のみならず往来の老若男女は皆視線を送る。
本当ならヨハンと二人で穏やかな休日になるはずだったのに、と今更考えても仕方のないことを考えてしまう。
隣の席に座った若い女性たちが、無遠慮にアルトリートを見ては小声で何か話している。そして、チラリとこちらを見てはまた何かを囁いている。
聞こえずとも彼女達の表情を見れば、簡単にその内容は想像できる。アルトリートに対するのは、賞賛の言葉であることに違いない。そしてその連れであるアマーリエには羨望と嫉妬を孕んだ眼差しが添えられている。
代われるものなら代わって差し上げたいのですけど、と心中で呟き、サンドイッチにかぶりつく。野菜とコショウのきいたハム、チーズが挟んであるだけのサンドイッチだが、パン自体にもうっすらと塩味がきいていておいしい。この店はアマーリエの勤めているパン屋がパンを卸しているのだ。美味しくないはずがない。
「このパンは……」
驚いた顔をしてそう言ったまま、じっとパンを見つめているアルトリートに、アマーリエは思わず自慢する。
「美味しいでしょう? 私の勤め先が卸しているパンなのよ」
「おまえも作れるのか?」
聞かれて言葉に詰まる。
パン屋に勤めているが、製造工程には入れてもらってはない。売り子として店先にいるだけで、たまにお使いに出るぐらいだ。
「……習えば、出来るかしら?」
何となく出来ないというのは癪に障り、一応、言葉を濁してみる。すると、アルトリートが憮然とした顔を、反らしてから言った。
「作れるなら、電気を引いてやってもいいぞ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが理解した瞬間、アルトリートの態度に口元がゆがむ。
笑いたい。
思い切り、笑いたい。
そこまで気にいったのだろうか。アマーリエの目一つと同じ価値がこのパンにあるというなら、明日にでも是非にでも習わなければならないだろう。
「分かった。習ってくる」
「出来たら電気を引いてやる。それまでは買ってこい」
どうやら本当に気にいったらしい。
今までパンを作っていたヨハンをチラリと見ると、おいしいですね、とニコリと笑みを浮かべた。
口の端についたパンくずを取ってあげながら、いいの? と尋ねる。
「はい。僕にはまだまだ学ばなければならないことがありますから、パンはアマーリエさんにお任せします」
本当に可愛いことを言う。ヨハンは、アマーリエが城での手伝いが出来ないことを心苦しく思っていることを知っているのだ。だからそう言ってくれるのだ。
「使い魔って、主人の性格に似ないのね」
思わずヨハンの頭を撫でながら言うと、反対の席からどういう意味だと言われた。
「だって、ヨハンってばすごく優しいじゃない?」
きっと大人になればアルトリート以上に女の子にモテるに違いない。顔良し、性格良しなのだ。顔だけのアルトリートとは大違いだ。
同意を求めてアルトリートを振り返ると、頬を引きつらせた悪魔がいた。
「それを俺に聞くか?」
「アマーリエさん……」
さすがにヨハンもアマーリエの言葉に含まれた毒に気づいたのか、眉をへの字に曲げてたしなめる。大切なご主人さまを悪く言われていい気分はしないのだろう。
頭を撫でながら謝る。
「ごめんね。アルトリートは幸せ者だね」
悪気があったわけではない。
悪魔に幸せ者という言葉自体、あってはならない言葉なのだろう。アルトリートもヨハンもさらに顔をしかめたが、今度はアマーリエの失言に何も言わなかった。