2.おまえは俺に逆らえない 2
豪華だが決して下品な派手さではない部屋のソファに、アマーリエは気づくと横になっていた。
見上げた天井は高く、ぶら下がったシャンデリアは年代物のようだが、灯した蝋燭の明かりが乱反射するようにぶら下げられたガラスに曇りはない。
自分の身体の下にあるソファも布張りだが手触りは極上で、ささくれ立った手が布を傷つけてしまわないかと心配になってすぐに手を離す。
「……ん? ここはどこ?」
ソファから身を起こし、まだ窓の外に陽光があることから日中だと言うことは分かる。
だが、一体今まで自分は何をしていたのかと思案する。
床に足を付けると、ふかふかの絨毯が靴下を履いた足に触れた。見ると、ソファのすぐ側にくたびれて汚れた見覚えのあるスニーカーが揃えて置いてあった。
一瞬、靴を履くべきか迷った。
スニーカーはひどく汚れていて絨毯を汚してしまうかもしれない。そうなっては簡単に弁償できるものではない。大体、相続税も払う算段がまだついていないというのに。
そこで、ハッとする。
「そうよ!」
叫んだあと、額に手を当てて記憶をたどる。
先程まで、シュヴァルツ城の地下にいたはずだった――。
クルトを先頭に、アンナの手を引きながら貯蔵庫から出て通路らしき場所を歩いていた。
外に上がる階段も見つけ、取りあえず出ようということになったのだが、その階段脇にもう一室、部屋があったのだ。
物置か何かだろうと思いつつ、気になって部屋を覗いてみたが、そこはかなり狭い小部屋で礼拝堂のような場所だった。
埃をかぶった床やクモの巣がかかった天井は低く、クルトにアンナを預けると、ゆっくりと足を踏み入れた。
何もないガランとした空間だが、礼拝堂と言いきれない不気味さがどこか漂っている。そう、礼拝堂は本来地上にあるべきもので、地下にあるものではない。だとしたら、ここは何なのだろう。
「ね、クルト。ここって……」
嫌な汗と奇妙な寒気が背筋を伝い、古い空気が余計にでも息苦しく感じる。
「――出よう」
アンナがいるからか、はっきりと口にしなかったが、おそらく考えていることはアマーリエもクルトも変わらない。二人の表情に何かを感じ取ったのか、アンナは今にも泣き出しそうな顔をしている。
出口に向かうアマーリエは焦っていた。その為、足元にまで気が回りきらなかった。
靴先に感じた衝撃と、壁にぶつかって何かが割れた音で、視界の端に見えていた瓶を思い切り蹴飛ばしたことに気づいた。
妙に音が反響する。
その音に驚いたように、アンナとクルトの背中がビクッと震えたのが見えた。
「え?」
それを最後に、アマーリエの視界は閉ざされた。
そう、完全に閉ざされたのだ。落ちてきた天井によって。
アマーリエが蹴飛ばした瓶の衝撃が、壁を伝わって天井が崩れてしまったはずだった。
「なんで生きてるの? アンナとクルトは?」
思わず自分の身体を抱きしめる。着ている服は先ほどと変わらないが、大量に土砂をかぶったにしては汚れていない。そっと頭に手をやるも、髪にも土が絡んだ形跡はない。
誰かが助けてくれたのだろうか。だがそれは有り得ない。
城を見に行くことを知っているのは、多分アンナの母親ぐらいだ。土砂に埋まっているアマーリエを助けることなど早々出来る筈はない。その間に死んでしまうはずだ。
では、天井が崩れたと思ったのが記憶違いなのだろうか。
靴を履かずに扉へと向かう。アンティーク調のドアノブを掴んで開けようとしたら、思いのほか軽く扉は開いた。
「あ、気づいたのですね」
そこには綺麗な銀髪の少年がいた。肩で切りそろえられた髪は見事にまっすぐで、整った顔立ちを彩るその瞳は黒。人懐っこい笑みを浮かべて、手にはトレイに載せにこりとほほ笑む。
服もアマーリエにしてはよそゆきになりそうなほど上質な、でもどこかクラシックな感じの服を着ている。
「あなたは?」
「僕はヨハン。お姉さんは?」
いつまでも入り口を塞いでいるわけにもいかないでの身を引くと、つかつかと入ってきながらヨハンに尋ねられた。
アマーリエは身の置き場に困り、その場に立ちつくしてしまう。
「アマーリエよ。あのね……ここはどこ?」
「僕のご主人さまの屋敷ですよ」
ヨハンは先程までアマーリエが横になっていたソファの側に置かれたテーブルの上にトレイを置くと、用意してきた茶器に手際良くお茶を入れる。カップから立ち上る湯気と香りに思わずふらりと近づいた。
「あの、私と一緒にいた人たちを知らない?」
こんな子供にご主人さまと呼ばすなんて、と思いつつその人物のことは取りあえず横に置き、気になっていたことを尋ねてみる。手でソファに座るように促され、ヨハンも自分用にお茶を入れると向かいのソファに座った。
「女の子と男の人のこと?」
猫舌なのか、カップの中に息を吹き込みながら、ちらりとこちらを見る。
「うん」
どうやらヨハンは彼らの行方を知っているようだ。思わず身を乗り出すと、ヨハンは可愛らしく首を傾げた。
「旦那さんと娘さん?」
「えっ、まさか! 違うよ。仕事先の娘さんと幼馴染だよ」
思ってもみなかった返しに、思わず声を大にして否定する。ヨハンはその声に驚いたらしく、カップを揺らして身を引いた。
それは思いのほか勢いがあったらしく、カップの中からお茶が零れた。
「あつい!」
ヨハンはすぐにカップを皿に戻し、立ち上がって膝の上に落ちたしずくを払う。
「ごめん! 大丈夫?」
アマーリエも自分の声が原因でヨハンに火傷を負わしたとなると、彼の言うご主人さまに申し訳がない。しかもお茶まで入れてもらったのだ。
「冷やさなくっちゃ」
「……大丈夫。もうあつくないよ」
先ほどまで綺麗な顔を歪めて泣きそうになっていたというのに、アマーリエが側に駆け寄った時には、すでにケロリとした顔をしてニコリと笑って見せた。
「嘘! 大丈夫じゃないでしょ? 早く冷やさないと跡が残っちゃう」
ヨハンの側にしゃがみこみ、零れたお茶で濡れたズボンを見たが、あら、と首を傾げた。視線を上にあげるとヨハンと目が合う。
「大丈夫ですよ。……あ、ご主人さまがいらっしゃる」
慌てたように扉に向かうその姿は不自然で、アマーリエはヨハンのズボンにお茶の染みが無かったことを訝しみ、思わず眉間に皺を寄せた。
確かにお茶は零れたはずだ。それは目の前で見たのだ。だがヨハンのズボンは濡れてはおらず、ヨハンも大丈夫だという。
先ほどからおかしなことばかりが続く。もしかしてこれは夢なのだろうかと思わずアマーリエは自らの頬をつねった。
「何をしているんだ、おまえは」
床にしゃがみこみ、眉間に皺を寄せ頬をつねったまま、アマーリエは声のした方を見上げた。
そして、やはりこれは夢なのではないだろうかと思った。
ヨハンがご主人さまと言った人物は、二十代半ばぐらいの青年だった。窓から差し込むかすかな陽光は、その髪に触れればきらきらと眩いばかりの輝きとなり、顔はどんな彫像さえその迫力には負けてしまうほど整っていた。きつく見える目元は彫像にはない生気を感じさせ、一方チョコレート色の瞳が柔らかさに変えている。
なんて絶妙なバランス。
アマーリエは心の中で喝采を上げたが、自分のまぬけな状態をどうやって脱しようかと考えると、ますます眉間に皺が寄る。
「おい? ……ヨハン、こいつは頭でも打ったのか?」
「いえ、先ほどまで普通に話してましたよ」
「ではなんだ、この態度は。人の顔を見て眉間に皺を寄せるとはいい度胸だと思わないか?」
どこまでもヨハンに話しかけているが、視線はアマーリエを上から見下ろしている。否、見下している。
「アマーリエさん」
あまりにも固まったまま動けないアマーリエに救いを差し伸べてくれたのは、やはりヨハンだった。
ヨハンに声をかけられて、すぐに手は頬を離れた。視線をヨハンに移動させると眉間の皺も消える。
「本当に火傷は大丈夫なの?」
「ええ。それよりもアマーリエさん」
社会人としての失態から逃げ出したかったアマーリエだが、それはヨハンが許さないようだった。彼の視線が青年へと向かう。
アマーリエは仕方なく立ち上がると、再び視線をヨハンの横に立つ青年へと向けた。
青年に不機嫌そうに見つめられ、肩身が狭くなる。自覚があるだけなおさらだ。
「アルトリートだ」
ただ一言、青年は不機嫌そうな顔で不機嫌そうに言い、不機嫌そうにソファにふんぞり返った。
「アマーリエ・レルヒです。あの……」
失礼な態度を謝ろうかと思ったが、目の前の青年の態度も鼻についたので謝罪は取りあえず後回しにする。しかし先ほど、ヨハンに聞いて結局は何も答えをもらっていない質問を再度ぶつけてみようと思い立つ。だが、青年は視線だけをこちらに向けると、アマーリエの言葉を遮った。
「レルヒ? おまえはメレディスではないのか?」
「いえ。レルヒです」
「……おかしいな。おまえからはメレディスの血の匂いがしたんだが」
考えるように顎に手を当て、ぶつぶつと何か不思議なことを呟いている。その姿もさまになっていて、思わず視線が釘付けになる。
白いシャツに黒いズボン。ヨハン同様クラシックな雰囲気を匂わす格好だが、アルトリートには不思議と違和感がない。見た目がよければ、どんな服を着ても似合うのか。
一方、アマーリエは自分の服装が、いかに目の前の二人からかけ離れた姿なのか思い知る。先ほど、アルトリートにみくだされたのは、単にアマーリエの態度が悪かっただけではなく、着ているものがいかにも貧乏くさかったからかもしれない。
視線だけが再び向けられ、無遠慮に見つめていた為、視線がぶつかり合う。
「なんだ?」
言いたいことがあるなら言えと、その表情は言っている。
先ほど、アマーリエの言葉を遮ったのは誰だったかしらと思いながら、やっと聞きたいことを口にする。
「私と一緒にいた人たちはどこにいるの?」
「ああ……。隣の部屋で眠っている」
「様子を見てきても?」
二人の所在を聞くと、いてもたってもいられず返事も待たずに立ち上がった。身体は扉へと向き、まさか否という返事はあるまいと勝手に思いながら足は動く。
しかし――。
「話はまだ済んでいない」
把手に手をかけた時、アルトリートは言い放った。
その自己中心的な言い方に思わずカチンときて振り返ると、ヨハンがハラハラした様子でこちらを見ていた。
だが、アマーリエは止めなかった。
「アルトリートさん」
つい口調が強くなる。
「なんだ?」
「休ませていただいて感謝してます。またお礼に伺いますので今日はこれで失礼させていただきます」
一体、何がどうなってこの屋敷にいたのか、アマーリエにはさっぱり理解できなかった。だが、ここで目覚めたということは彼らに何らかの迷惑をかけたのだろう。それなら後日、もう一度状況を理解するためにも来なければならない。アルトリートがまだ何か話したいというならば、その時でもいいはずである。今は、預かっている子供のアンナもいるのだ。怪我がないか一時も早くこの目で確かめたかった。
だが次の瞬間、アマーリエは目を見張った。
「話はまだだと言ったはずだ、『アマーリエ』」
名前を呼ばれた瞬間、この部屋から出ていく気満々だったアマーリエの身体は身動き一つ出来なくなった。驚きに目を見張ろうにも瞬き一つできず、指一本動かせない。声を出そうとしても唇さえ動かない。
「こちらにきて座れ」
アルトリートが目の前のソファを指差すと、アマーリエの身体は意識に反してそちらへと向かう。
一体、何が起こったのか分からないままソファに腰かけると、やっと身体は意識と呼応する。
息を深く吸い込むと、目の前の男を警戒も露わに睨みつけた。
「……今のは何?」
アルトリートは尊大な態度のままだったが、先ほどの不機嫌さは薄れていた。その綺麗な顔を皮肉げに歪め、笑みを浮かべている。
「名前で縛っただけだ」
「何なのよ、それは!」
眠っている間に、催眠術でもかけたと言うのだろうか。頭のどこかで警鐘が鳴る。聞いてはならないことを聞いているような気がする。
アルトリートの機嫌が良くなる一方、アマーリエの気分は悪くなる。
「メレディスの血をひく人間なら、俺の言うことを聞く契約だからな」
言われている意味はよく分からなかったが、内容はアマーリエにとって良くないものであるということぐらい何となく理解できた。そしてそれが常識に当てはまらないということも。
「だからあなたは何なのよっ!」
足元から這い上がる恐怖に、堪らず悲鳴に近い声を上げる。
その様子にアルトリートは満足そうに目を細めると、口元に笑みを刷いた。それはどこまで怜悧で、冷酷で、残忍に見えて、アマーリエの呼吸は思わず止まる。
「人間の言うところの『悪魔』というやつさ」