17.これでお別れです 2
そして現在に至るのだが――。
食事の後、さっさと部屋に引き上げようとしたアマーリエを捕まえ、ヨハンに声をかけたアルトリートは、アマーリエを半ば引きずるように居間へと連れてきた。すぐにヨハンはコーヒーの準備をして現れ、テーブルの上にそれぞれのカップを置くと、二人の向かいに余裕の笑みを浮かべて腰かけている。
アルトリートは半ば目を閉じて、それでもしっかりとアマーリエの手首をつかんでいるところが侮れない。
ヨハンのことは任せたと言ったのに、と諦めの心境でソファに座っていた。
だが、早二時間が立つ。そろそろ話し合いを始めてほしい頃合いだと思っていると、おもむろにアルトリートが目を開けた。
「契約を破棄してもいい。だが、おまえが約束を守るという保証はない」
「……そこは信用していただかないと」
「悪魔の言う信用という言葉ほど信用ならないことぐらいおまえだって知っているだろう」
「ええ。口先でならいくらでも言えることですからね」
子供の姿で、冷ややかに笑うヨハンを見ると、背筋が凍りつきそうになる。
ツェツィーリアがヨハンを怖がっていた理由が分かった気がした。これのどこが人間っぽいものか。これほど悪魔らしい悪魔はいないのではないだろうか。
思わずアルトリートの方に身を寄せると、手首を解放され、肩を引き寄せられる。当然、身体は密着する。
ちらりと隣を見上げると、いつもよりも冷酷な表情を浮かべたアルトリートに怖いと思うと同時に、半端ではない吸引力をもって目が離せなくなる。
凄みを増した美しさに、意識を総動員して視線を引っぺがすことに成功すると、落ち着かない気分のままヨハンへと目を向けた。
ヨハンは唇の端にうっすらとした笑みを浮かべると、淡々と告げた。
「別に僕はあなたのことなど恨んでなどいませんよ。大体、この契約は正当な賭けの結果に過ぎませんし?」
余裕の態度のヨハンは、見た目が少年だが中身は違う。
「でも、悪魔は本当のことを言わないと言ったのはヨハンよ」
思わず口を挟むと、黒い瞳がこちらを見つめる。
そして、良く出来ましたとでも言うかのように手を叩いた。
「よく覚えておいででしたね。僕はあなたのことは嫌いではありませんでしたよ」
だからといって好きでもなかったということなのだろう。
あの屈託ない笑顔がすべて偽りだったのだろうか。アマーリエは肩を強くつかまれたこともあり、それ以上は口を挟む気にもなれなかった。
アルトリートが空いた片手を翻すと、テーブルの上にふわりと薄茶けた紙が現れた。端の方は破れ、かなりの年代物だということが窺える。しかも見たこともないような字で文章が綴られている。
「契約書だ」
素っ気なく言い放つアルトリートとは反対に、ヨハンの瞳はその紙切れに釘付けになった。その唇も嬉しそうに弧を描いているようにも見える。
「おまえを信用しているわけではない。だがおまえが最初に言ったことだ。それぐらいのこと、やれるだろう?」
アルトリートはあきらかに挑発と分かる言葉を発しながら、契約書に火をつけた。
ボッと音を立てて一瞬にして炎に包まれる。
「アルトリート……」
不安になって思わず隣の悪魔の服を掴む。
契約書を包んでいた炎は、燃えるものがなくなると炭だけを残して消えていった。
ヨハンはしばらく黙ったままだったが、おもむろに立ちあがると自らの手を眺めて呟いた。
「ああ、やっと力が戻って来た」
アルトリートに封じられてどれほどもどかしい思いをしていたのか、最初こそ、くっと喉の奥で堪えるような笑みを漏らしていたが、次第にそれは哄笑となる。
「僕は自由だ」
おさまった笑いと共に、ヨハンはアルトリートを見据えて告げる。
それはどこか上から見る者の視線で、アマーリエはこのままヨハンが約束を守らないかもしれない不安にかられる。
だが、ヨハンはしばらくアルトリートを見据えてから、ちらりと視線をアマーリエに移す。
「人間ごときのために僕ほどの悪魔を手放そうとするあなたは愚かだ」
その台詞から滲み出る感情はどこまでも蔑みだったが、アマーリエには言葉の裏に寂しさが見え隠れしているように感じ、ある仮定を思いつく。
もしかしたら、ヨハンはアルトリートの側にいたいがためにあの提案を言ったのではないだろうか。それは、どれほどアルトリートに必要とされているかを計る一種の賭けのようなものだったのかもしれない。価値ある存在だと思われていれば、提案を受け入れない。もしくは必要でなくなれば、提案を受け入れる筈だと。人間だって同じだ。誰かの役に立っていると思えたなら、自分の価値を見い出せるではないか。
ヨハンはきっと最初こそ勝負の結果だったとしても、使い魔としてアルトリートの側にいることが意外にも気にいっていたのではないだろうか。でなければ、あんなに楽しそうに掃除をしたり、食事を作ったりなどしないはずだ。まして、力を節約だといい、自らの労力で働いたりするだろうか。
「ヨハン……」
そう思うと、いてもたってもおられずにアルトリートから離れて、今にもどこかに行ってしまいそうなヨハンに向かって手を伸ばす。
「おい」
だが、不満げな声と同時に後ろから腰に腕を回され、もといた場所……の隣に腰を落とすはめになった。そこは、アルトリートの膝の上で。
首筋に感じる息と、背中に感じる体温に、心臓が跳ね上がる。頭に上った血が、声まで上ずらせる。
「ちょっと、何してるのよ!」
先ほどまでの緊張感などまるでない悲鳴を上げ、いつの間にか身体に巻き付けられていた腕をパシパシと叩く。
引っ張っても離れる素振りもないその腕の持ち主を、首を回して睨もうとして、失敗した。
すぐ目の前にチョコレート色の瞳があった。息がかかるほど近くにアルトリートがいて、その視線が今まで見たこともないような感情を浮かべてアマーリエを見ている。その視線に込められた熱に絡め取られるように身動きさえ取れなくなる。
「アルト……」
掠れた声はどこまでも弱々しく。
唇をかすめる吐息は熱くて。
身動きさえ出来ない現状から逃げ出したくて、目を閉じた。
「そういうことは、僕がいなくなってからにして下さい」
冷ややかな声音に、ハッと振り返る。
忘れていたわけではなかったが、完全に無視した状態だったこと思い出し、今度は血の気が下がる。
「なんだ、まだいたのか。さっさと呪いを解いて行きたいところに行け」
アマーリエの身体にまわした戒めを解く気もなさげに、アルトリートはそのままアマーリエの首筋に顔を埋める。
「ちょっ、アルトリート!」
身を捩りながら、再びアルトリートの腕をパシパシと叩く。
その一方で、呆れきった表情を浮かべたヨハンに、アマーリエは溜息をつかれつつ名を呼ばれた。
「アマーリエさん」
「なに?」
身体に巻きつく腕と悪戦苦闘していたアマーリエは、いつの間にか目の前に来ていたヨハンに気づかなかった。
名前を呼ばれ思わず顔を上げ、額に感じた柔らかい感触に思わず動きが止まる。
「え?」
離れたヨハンは先ほどまでの冷酷な顔をした悪魔ではなく、悪戯をしたような子供の顔をしていた。
ヨハンの黒い瞳は笑っていた。
「呪いは解きました。これでお別れです。僕もあなたの焼いたパンは本当に好きでしたよ」
そう言って、扉に向かうヨハンにアマーリエは、ヨハンに口付けられた額を押さえながら言わずにはいられなかった。
「待って、ヨハン!あなたがここにいたければいてもいいのよ!私の焼いたパンが好きならいくらだって焼いてあげるわ!」
アルトリートの膝の上から叫ぶにはいささか説得力もない態勢だったが、それでも言わずにはいられなかった。
ピクリと肩をふるわせて立ち止まったヨハンは、こちらを振りかえろうともせずに、その銀髪を軽く揺らす。
「いいえ。もう二度とお会いすることはないでしょう。それに、これ以上邪魔をしたら今あなたを拘束している悪魔に殺されかねないので」
失礼しますと告げられ、扉は静かに閉じられた。
じっと扉を見つめていると、漸く身体にまわされていた腕が緩められる。
額を押さえていた腕を除けられると、苛立たしげにヨハンと同じように口づけが落とされる。
「人のものに勝手に手を出すとは……。おまえも黙ってされるがままにしておくな」
「何を、言ってっ……」
先ほどからのアルトリートの態度は、アマーリエの中では恋人にするそれと一緒で途端落ち着かなくなる。
身体に回された腕が緩んだのをいいことに、アマーリエは膝の上から下りる。
直後――。
「アマーリエ」
名を呼ばれて、一瞬呼吸が止まる。
だが、以前のように身動きが出来なくなることはなかった。
「あら?動ける?」
驚いてアルトリートを振り返ると、ソファに座っていたはずの悪魔は立っていた。しかもすぐアマーリエの側に。
あまりにも近い距離に瞬間的に一歩下がりかけ、再びアルトリートの腕に拘束される。
「どこに行くつもりだ?」
「え、だって、ヨハンがいなくなったのならカップの片づけをしないと」
テーブルの上には飲まれなかったままの冷めたコーヒーが置かれたままだ。
それに、よく考えたら明日の朝ごはんの支度もしなければならない。材料がどれぐらいあるのか台所に確認しにも行かなければならない。考えれば考えるだけ、やることはたくさんあるではないか。
「そのようなことは心配無用だ。おまえにさせるつもりはない」
「じゃ、アルトリートがやるの?」
吃驚して見上げると、苦笑が頭上から降る。
「明日になれば分かる。今日はもう疲れた。休むぞ」
促されるように背中を押され、テーブルにおかれたカップを気にしつつアルトリートに従う。
本当に、ヨハンはいなくなったんだと思うと、途端心の中にぽっかりと穴が開いてしまったような寂しさを感じてしまう。呪いは解かれたと言うが、呪われていた気がしなかったので、解かれた気もしない。それよりも、気になったのは、アルトリートがどうして呪いを解く気になったかだ。解いてやる気などないと言っていたのに。
「どうして呪いを解く気になったの?」
部屋に向かって隣を歩くアルトリートを見上げ、尋ねる。すでに廊下は真っ暗で、アルトリートの手のひらの上にはいつか見た白い炎が灯っていた。
二階へと続く階段の手前で、アルトリートは呆れたように息を吐き出し、足を止めた。
「おまえは……どこまで気づかないつもりだ?」
アルトリートの声は引きつっていて声と同じ表情を浮かべていた。一方アマーリエは言われた意味が分からず階段の手すりに手をかけたまま振り返る。首を傾げると、いきなりフッと明かりが消えた。
急に真っ暗になって、やはりこのままアルトリートまでいなくなってしまうのではないかと不安になって手を伸ばすと、急に身体が宙に浮く。
「アルトリート!?」
暗闇の中、身体の側面と背中と膝裏に感じる体温に、アルトリートに抱きかかえられているのだと気づく。
いなくなったのではないのだとホッとしたのも束の間、頭のすぐ側で声がする。
「気づかないつもりなら、気づかせてやる」
挑戦的な台詞に、アマーリエの方が今度は頬を引きつらせる。
なにか地雷を踏んだらしい。何がいけなかったのだろうと、必死で頭を回転させる。
「ア、アルトリート?何をするつもり?」
だがその問いにアルトリートは答えてくれず、アマーリエはその後身を持って知ることとなる。
絶対に、アルトリートを怒らせてはならないと。
直接対決ってほど対決はしていなかったですね。
次話、本編最終話です。